「量子技術は、人々を“つなぐ”ためのインフラになる」
「量子技術は、人々を“つなぐ”ためのインフラになる」

2025/12/03
「量子技術は、人々を“つなぐ”ためのインフラになる」G-QuAT 益一哉センター長×オードリー・タン氏 特別対談
2025年10月16日、幕張メッセで開催された「CEATEC 2025」において、産総研は「量子技術の産業化に向けた産総研G-QuATの戦略」と題したコンファレンスを実施しました。同コンファレンスでは、量子・AI融合技術ビジネス開発グローバル研究センター(G-QuAT)センター長の益一哉と、台湾元デジタル担当大臣のオードリー・タン氏が対談を行い、多角的なテーマで意見を交わしました。
量子コンピューティングが民主主義にもたらすものとは
G-QuAT 副センター長 堀部雅弘
──タン氏は、AIを活用して民主主義の再設計に挑み、市民参加型の合意形成を実現されました。技術を中央集権的な支配ツールではなく、分散型知性として社会に実装し、市民がルール形成に関与できる環境を整備された姿勢は、まさに現代の民主主義の可能性を示すものであります。そこで最初の質問ですが、量子コンピューティングは、民主主義の包摂的な生活の質をどのように高めるとお考えですか。
タン氏量子コンピューティングが最も力を発揮するのは、それが社会の“インフラ”として開発されるときです。つまり、中央集権的な権力を強化するためではなく、人々の集合知を高めるために設計されるときにこそ、真の価値を持ちます。
私はこれを「プルラリティ(Plurality)」と呼んでいます。
日本が「量子産業化元年」と位置づけるこの年、重要なのは、量子技術の進化が新たな格差を生むのではなく、人々の協働を促進する方向へ向かうことです。
「プルラリティ」の応用分野は、3つあります。1つ目は、集合的な課題の解決です。量子技術とAIの融合により、複雑な社会課題が解決に向かいます。効率的なバッテリーを生み出す材料科学、グリーン水素、触媒、炭素の隔離などがその具体例です。触媒の分野だけでも、ハーバー・ボッシュ法を代替することで世界のCO2排出量の約2 %を削減できると言われています。こうした革新は、エネルギー分野の未来を形づくるだけでなく、創薬や個別化医療など多様な分野の発展を加速させるでしょう。そして、これらの集合的な課題を、みんなで協力すれば解決できるものとして捉えられれば、民主主義はよりよく機能するようになるのです。
2つ目の応用分野は、「民主主義そのもの」です。新型コロナウイルス感染症の世界的大流行(パンデミック)の頃、台湾では「Pol.is(ポリス)」というオンラインツールを活用し、多くの市民の声を収集しました。その結果、対立するように見える声の間にも、共通点があるとわかったのです。例えば、プライバシー保護と公衆衛生の間にも見過ごされていた共通点がありました。この共通点を可視化することで、解決に時間がかかる行き詰まりを、わずか数週間で乗り越えられたのです。量子技術は、このプロセスを指数関数的に拡張する力を持ちます。プライバシーを守りながら、暗号化された数百万の市民の声をリアルタイムで解析できるようになるのです。そして人々が、「自分の意見が社会に影響を与えている」と実感できるとき、民主主義はより深まります。それが本当の意味で人々が力を得た状態なのです。
3つ目の応用は、表現の自由や組合の自由の基盤を守ることです。量子通信には特別な性質があります。例えば、通信が監視されているかどうかを通信当事者が検知できたり、情報を完全に削除したと証明できたりする。これは、ジャーナリストや活動家、市民が安全に依存できるインフラを築く上で、非常に重要です。
ただし、それらのツールが一部の強力なプレーヤーに独占されては意味がありません。民主主義は、テクノロジーが権力を外へ分配するときにこそ真に繁栄するのです。量子技術の力を社会に開き、その影響を透明にすることで、量子技術は確実に社会へ貢献していけると信じています。
先日訪れたシリコンバレーでは、人々が人類のあらゆる問題を解決する“超知能”の到来を信じていました。そして量子技術は、その進化をさらに加速させると考えられていました。けれども、日本の考え方は少しそれと異なると感じます。加速することも大切ですが、より大切なのは“かじを取る”ことです。すなわち、誰もが参加し、享受できる空間を設計すること。なぜなら――私たち人間こそが、私たちが探している“超知能”だからです。
益お話しを伺って、改めて量子技術の持つ圧倒的な力を感じました。そして同時に、その力を「誰も取り残さない形で生かす」ことの重要性を強調されていたと思います。単なる技術開発ではなく、多様性を包摂する社会インフラとして量子技術を位置づけるという視点ですね。
私自身は研究者として、性能を高める、未解決の問題を解くといった技術的な到達点ばかりを追いがちでした。けれども、開発そのものよりも「誰のために、何のために技術を生かすか」という視点が欠かせないと、改めて感じました。経営や研究のロードマップを語るとき、ついいつまでに何を実現するかという成果軸に偏りがちですが、それだけではいけない。「民主化」という言葉の意味を、本日はより実感をもって理解できた気がします。
研究と産業の“時間軸のずれ”をどう埋めるか
──量子コンピューターは世界的にも開発が急速に進み、政府・民間を問わず投資が拡大しています。その中で、基礎研究に取り組む研究者と、短期的成果を求める産業界や投資家との間には“時間軸のずれ”が生まれています。タン氏は台湾で、政策の立場から技術と社会をつなぐ役割を担われてきましたが、このようなずれをどのように乗り越え、研究者・産業界・政府が協働していくべきだとお考えでしょうか。
オードリー・タン氏
タン氏“時間軸のずれ”は大変重要なテーマです。ただ、それは量子技術に限らず、あらゆるテクノロジーに共通する課題でもあります。
私は現在、オックスフォード大学で「シックス・パック・オブ・ケア(Six Pack of Care)」という基礎研究を進めています。これは哲学や倫理の観点から、機械が人間社会をどうケアできるかを探る取り組みです。一方で私は、大使としてAIや新しいテクノロジーが社会に与える即時的な課題にも関わっています。つまり、長期的な研究と短期的な社会課題、その両方を行き来しているのです。だからこそ私は、どちらか一方を優先するよりも、長期と短期の間に“橋”をかけることが解決の鍵だと考えています。
その“橋”の一例が、台湾で行っている「アラインメント・アセンブリーズ(Alignment Assemblies)」というプロジェクトです。これは、市民が集まり、「AIをどのように管理すれば、より多くの人々が安全かつ有効に活用できるのか」について意見を出し合う場です。AIを使って何かを統制するものではなく、むしろ市民が主体となってAIの活用のあり方を考える民主的なプロセスです。たとえば、ディープフェイク広告被害の対策や、AIの利用における“レッドライン”をどこに引くか──そうした議題を、市民とAIが共に考えます。この活動を支えるインフラには、民間企業のツールが活用されています。同時に、長期的な視点で「どのようなAIが将来の社会に役立つのか」という基礎研究も並行して進められています。このように、短期的な課題解決と、長期的な研究開発を両立させることが重要なのです。
G-QuATはまさにこの発想を体現していると思います。特に、ABCI-Qが量子コンピューターと、古典コンピューターを組み合わせて運用している点は、まさにハイブリッド型のアプローチです。グラフィックス処理装置(Graphics Processing Unit, GPU) だけでなく 中央演算処理装置(Central Processing Unit, CPU) も活用している点も同様です。こうした取り組みこそ、私たちが必要としている“橋”のかたちです。「直ちに効果のある対策」と「長期的な基礎研究」の両輪を止めることなく進めていくことが、これからの時代において極めて重要だと考えています。
最も、ソリューションが新たな課題を生むこともあります。台湾で2020年に導入した「マスクマップ(Mask Map)」は、その好例です。マスク販売拠点の在庫情報をGoogleマップ上で30秒ごとに自動更新する仕組みでしたが、野党議員から「平等の定義」に対する疑問が投げかけられました。都市と地方では、10 kmという距離の意味がまったく異なります。都市では地下鉄で1駅分の距離でも、地方では次のバスを1時間待たなければならない──距離の同一性が、時間の不平等を生んでいたのです。
しかし幸いにも、当時の私たちは徹底した透明性(Radical Transparency)を実践していました。野党にも同じデータを共有し、問題を把握した上で修正提案を行うことができ、その結果、わずか1週間でマスクの事前予約システムを導入できました。このように、透明性を保つことで、失敗を市民の集合的知性を育む学びの機会へと転換できたのです。
そして、パンデミックの後、私たちは台湾のデジタル省を交通部の所管下に設置しました。これは、世界的にも極めて珍しい構造です。その理由は明確で、デジタルの取り組みを長期的なインフラ投資と位置づけたからです。政府が責任をもって資本投資を続ける姿勢を示すことで、産業界も安心して技術や専門性を提供できる。そして、そうした安定性があるからこそ、アカデミアも腰を据えて基礎研究に取り組めるのです。
G-QuATの取り組みも、まさに同じ方向性を持つものだと感じています。G-QuATには多様なパートナーが関わっているかと思いますが、しっかりとした計画を示すことで、より多くのステークホルダーが関与しやすくなっていると感じています。
台湾ではデジタル省を設立した際、ロゴマークにモーターの意匠を採り入れました。これは、常に回転し続け、継続的に前進していくという意志を込めたものです。その意味でも、台湾が目指した方向性と、G-QuATが掲げているビジョンの間には、多くの共通点があると感じています。
益基礎研究に携わる研究者と、ビジネスの現場で動く人々とでは、やはり時間軸の感覚がまったく違うというのは、私たちも日々実感しています。その中で、タン氏が使われた“橋”という言葉が非常に印象的でした。
G-QuATでも、この“橋”を意識して活動しています。例えば、G-QuAT本部棟にはアカデミアや産業界の研究者が自由に集まり、交流できるオープンスペースを設けています。そこには日本国内だけでなく、海外の大学や企業の方々にも参加してもらうことを想定しており、研究と産業をつなぐ場として機能させたいと考えています。
量子の新技術を、人々に不安を抱かせずに浸透させる方法
――量子コンピューターという新しい技術が今後、どのような形で社会に浸透していけば、人々が不安を抱くことなく、民主主義の発展に貢献できるとお考えでしょうか。
タン氏量子技術は、本質的にはサイバースペースにおける「デュアルユース・テクノロジー(dual-use technology)」、つまり防衛にも攻撃にも使える技術です。量子攻撃に使えば、今は「れんがの壁」に見える暗号化も「紙」のように破れてしまう可能性があります。現在、暗号化された通信データを保存しておき、将来の量子コンピューターで解読する――そんな時代も来るかもしれません。
では、こうした脅威的なテクノロジーへの信頼をどう築くか。それには、まず「信頼を与える」ことです。研究者や政策立案者が市民と対話を重ね、テクノロジーの動向を率直に共有することが欠かせません。G-QuATが人々と対話する場を設けているのも、その好例だと思います。私自身、3年前に台湾でディープフェイク(Deepfake)をテーマにした取り組みを行いました。俳優が私の顔に変換して私が話しているように見える映像”をあえて公開し、「こうした技術は直ちに誰でも使えるようになる」と伝えたのです。当時はまだGPUと時間を要しましたが、今では動画生成AIの登場によって、その未来が現実になっています。
私たちはこれを「プリバンキング(pre-bunking)」と呼んでいます。詐欺や偽情報が広まった後に否定(debunking)するのではなく、起こる前に共有して備えるという考え方です。そうして政府と市民が共通の知識を持つことで、社会の信頼が保たれるのです。
また、ホワイトハット・ハッカー(善意のセキュリティー研究者)と連携し、量子コンピューターを使って悪意ある攻撃者より先に脆弱性を見つける「レッドチーミング(red-teaming)」の発想も非常に重要です。ただし、技術面の安全性だけでなく、社会的な信頼の仕組みも同じように構築しなければなりません。
そのためには、
• 迅速な対応(fast response)
• 公正なプロセス(fair process)
• 楽しい参加(fun participation) が欠かせません。
なぜなら、これは社会に“何かをする”ことではなく、“社会とともに何かを行うこと”だからです。オープンソースの世界でよく言われるように、「多くの目があればバグは浅くなる(Many eyes make bugs shallow)」のです。同様に、多くの声が集まれば、量子コンピューティングはより安全なものになるでしょう。
G-QuAT センター長 益一哉
益量子技術の進化は本当にスピードが速く、半導体のようにロードマップを描くことは非常に難しいです。ここ2〜3年だけでも、想定よりもはるかに早い進展があり、当初は10年、20年先と言われていた技術が、いまや5年以内に実現可能な水準に達しつつあります。だからこそ、私たちは技術の進化を正確に社会へ伝える責任があると、改めて感じました。
社会価値の創造に取り組む研究組織の役割とは何か
――G-QuATをはじめ、台湾を含む世界中の研究機関が社会価値の創造に取り組んでいます。そうした社会価値の創造に取り組む研究組織に求められる社会的な役割や、これから重視すべき考え方とはどのようなものでしょうか。
タン氏私が台湾政府で働いていたとき、自分を社会の声と制度の間に立つ存在だと捉えていました。まるで2つの天体の間にあるラグランジュ点にいるような感覚です。どちらの軌道にも属さず、両者の間をつなぐ“翻訳者”として存在していたのです。その観点から見ると、G-QuATは制度面でも非常に優れています。産業界と協力しながら、13カ国との多国間対話を主催し、共同シンポジウムを開催している。これによって、国際的な共通理解を形成しています。
ただし、それを社会実装するためには、もう一段の発想転換が必要です。AIの分野では、AIや自動化システムにおいて、「人間が意図的に関与する設計思想(Human-In-The-Loop)」という考え方があります。しかし、AIや量子技術の進化速度はあまりに速く、人間が“制御する側”にい続けるのは難しい。それはまるで、ハムスターが回し車の中で走り続けるような状態です。だから私は、こう言いたいのです。人間をテクノロジーのループの中に入れるのではなく、テクノロジーを人間のループの中に入れよう(Technology-In-The-Human-Loop)、つまり、テクノロジーを人間社会の節度や倫理の中に置くということです。シリコンバレーでは「とにかく速く動いて壊せ(Move fast and break things)」という文化がありますが、今後、量子コンピューターの分野では「慎重に動いて修復しよう(Move carefully and repair things)」という姿勢が求められると考えています。破壊ではなく、思いやりのあるイノベーションが重要なのです。
量子技術では、これから必要とされる熟練労働者は現状の3倍になるでしょう。だからこそ、既存のエンジニアが量子分野へスムーズに移行できるよう支援し、置き換えるのではなく能力を拡張するアプローチを取るべきです。決してロボットに代替するというものではありません。 また、中小企業もABCI-Qにアクセスできる仕組みを整えることで、巨額の投資をしなくても小さなチームがイノベーションを実験できるようにするべきです。さらに、その恩恵を東京だけでなく、地域全体に広げていくことももちろん大切です。
益量子技術の進歩は非常に速く、私たちはつい「どう効率的に回すか」ということばかり考えてしまいがちです。しかし、社会実装そのものが目的ではなく、その先にある“人々の幸せ”につなげていくことが本質なのだと、改めて感じました。
量子・AI融合技術ビジネス開発グローバル研究センター
センター長
益 一哉
Masu Kazuya
台湾元デジタル担当大臣
オードリー・タン
Audrey Tang