発表・掲載日:2020/06/03

電子状態が変化する前の姿から、変化後の姿をAIが正確に予想

-電子の励起状態を高速で計算、構造解析のアクセルに-

発表のポイント

  • 物質の構造を調べる方法の1つに、X線や電子線を照射して物質中の電子を励起し、その際に測定されるスペクトルを用いる方法があります。しかし、測定されたスペクトルの意味を理解するためには、数時間から数日を要する励起状態の理論計算が必要でした。また、その重要性に反して励起状態は複雑で、明らかにされていないことがありました。
  • 今回、人工知能技術を利用し、電子が励起していない「基底状態」の情報をもとに「励起状態」の電子構造を、高速かつ高精度に予測する手法を開発しました。これにより、わずか数秒から数分の計算で、スペクトルを計算できるようになりました。さらに、人工知能技術によって、これまで明らかにされてこなかった励起状態に関する重要な知見も得ることができました。
  • 本手法を発展させることで、さまざまな物質開発での検査手法の開発が加速できると期待されます。

概要

東京大学 生産技術研究所の溝口 照康 教授、清原 慎 大学院生(研究当時)、産業技術総合研究所の椿 真史 研究員らの研究グループは、励起状態(注1)にある電子構造を人工知能で予測する新手法を開発しました。

半導体設計や電池開発、触媒解析など、物質開発の現場では、物質の構造を調べるためにスペクトル(注2)が日常的に測定されています。例えば、X線や電子線を照射して物質中の電子を励起し、励起状態に応じて測定されるスペクトルを解析することで、物質の原子配列と電子構造を調べます。ところが、測定されたスペクトルの意味を理解するにはコンピューターで励起状態を再現して、スペクトルを理論計算(注3)する必要があり、その大規模で複雑な計算には膨大な時間がかかっていました。また、励起状態を利用するスペクトルは環境物質の同定や、血液診断など、さまざまな分野で使用されています。その重要性に反して、励起状態は複雑で、十分には理解されていませんでした。

そこで、本研究グループは高速・高精度で励起状態を予測する手法の開発を目指し、まずは酸化シリコンの結晶とアモルファス(注4)から、励起状態と基底状態のスペクトルをそれぞれ約1,200個計算し、データベース化しました。次にこのデータをもとに、励起する前(基底状態(注1))と励起した後(励起状態)の関係性を、ニューラルネットワーク(注5)に学習させました。その結果、基底状態の情報を入力すると、励起状態の情報を高精度に出力する人工知能を構築することに成功しました。

本手法により、時間を要するスペクトルの理論計算を人工知能に置き換えることで、従来よりも数百倍と大幅に高速化することが可能になりました。また、本研究を通して、励起状態に関する重要な知見を得ることができました。例えば、酸化シリコンの励起状態が、酸化マグネシウムや酸化アルミニウムなどの酸化物の励起状態と類似していることや、“結晶”と“アモルファス”ではその励起状態が異なることも突き止めました。これらの知見は、人工知能技術を利用することで、初めて明らかになりました。

本手法は励起状態が関わるスペクトルに使用することが可能です。本手法を活用することで、物質の構造解析や、環境物質調査、医療診断に要する時間を大幅に短縮することができ、物質科学や環境問題の解決や、医療技術の発展にも大きく貢献できると期待されます。

本研究成果は令和2年6月3日(英国夏時間)に英国Nature Publishing Group発行の「npj Computational Materials」オンライン版に掲載されます。


発表内容

<研究背景>

世の中にある物質は、外部からエネルギーや光を与えなければ、安定な状態である基底状態として存在しています。一方で、物質にエネルギーが供給されることで、安定な状態から励起した励起状態が作り出されます。

励起状態はLEDや化学反応など、私たちの身近で普通に使われています。例えば物質にX線や電子線を照射することで励起状態を作り出すことができます。その際に得られるスペクトルには、物質の構造や結合に関わる情報が含まれており、物質開発の現場では頻繁に励起状態が関わるスペクトルが測定されています。例えば、電子顕微鏡やX線を使った内殻電子励起分光法(注6)は、高い空間分解能と時間分解能で原子配列と電子構造を調べることができ、半導体設計や電池開発、触媒解析に広く利用されてきました。また、励起状態を利用するスペクトルは環境物質の同定や、血液診断など、さまざまな分野で使用されています。

測定されるスペクトルは、電子が励起した一瞬の状態を反映しています。上述の内殻電子励起分光法でスペクトルを測定する場合、その励起状態が存在できる寿命はフェムト秒(10-15秒)オーダーのまさに一瞬です。その一瞬の間に、物質の電子構造は大きく変化しているため(注7)、励起状態を反映しているスペクトルを理解するには、コンピューターを使って励起状態を理論計算する必要があります。励起状態の理論計算では、励起した状態を正確に扱うために大規模で複雑な計算をする必要があり、計算時間は最低でも1時間、複雑なもので数日を要します。また、励起状態は複雑なため、その励起状態が物質間でどのように異なるのかなど、基礎的な知見がこれまで欠落していました。

<研究内容>

本研究グループは、人工知能で使用されているニューラルネットワークを利用しました。ニューラルネットワークでは、入力層と出力層が脳を模した多層のネットワークでつながれています(図2)。本研究グループは、入力データに励起する“前”つまり基底状態の情報を、出力データには励起状態のスペクトルを利用してネットワークを築きました。そうすることで、基底状態から励起状態を予測する人工知能を構築することができます。

本研究グループはまず、酸化シリコンの結晶とアモルファスから、1,200個近いスペクトルのデータベースを作成しました。そのデータベースを使って、基底状態と励起状態の関係性を学習して、ニューラルネットワークを構築し、基底状態から励起状態を予測できる人工知能を構築しました。

実際の予測結果を図3に示します。基底状態の情報(青線)を入力し、スペクトルを予測しました(緑線)。約1時間を要して計算した正解スペクトル(黄緑線)とほぼ同じスペクトルを数秒で得ることができ、高い精度での予測に成功していることがわかります。

励起状態の計算と異なり、基底状態の計算は数秒から数分で終了します。本手法を用いることで、スペクトルの理論計算自体を大幅に(数百倍)高速化することが可能になりました。

本研究で得られた成果は、単なる高速化にとどまりません。本研究を通して、励起状態に関する重要な知見を得ることができました。例えば、酸化シリコンを使って作成した予測モデルを、酸化マグネシウムや酸化アルミニウム、酸化リチウムのような全く別の酸化物のスペクトルにも適用した結果、結晶構造や構成元素が異なるそれらの酸化物のスペクトルも高精度に予測できることが明らかとなりました。このことは、酸化シリコンの「励起状態」が、それらの酸化物の「励起状態」と類似していることを示しています。

また、“結晶”の酸化シリコンで作成した予測モデルを、“アモルファス”の酸化シリコンに適用した場合、予測精度が著しく悪いことがわかりました。その結果から、同じ組成で構成されている化合物であっても、“結晶”と“アモルファス”ではその励起状態が異なるということを初めて明らかにすることができました。

これらの知見は、従来のようにただ計算するだけでは気が付きにくい情報です。人工知能が励起状態を学習し、その学習結果を利用することで初めて明らかになりました。

図1

図1 本研究の模式図。基底状態(図上部)の電子状態から、励起状態(図下部)を正確に予測。

 

図2

図2 ニューラルネットワークの入力と、出力の関係。入力には基底状態の情報を、出力には励起状態の情報を利用して、ニューラルネットワークを構築した。

 

図3

図3 励起状態のスペクトルの予測結果。基底状態の情報(青線)を入力し、スペクトルを予測した(緑線)。膨大な時間をかけ、従来の方法で計算した正解スペクトル(黄緑線)とほぼ同じスペクトルが得られており、高い精度での予測に成功していることがわかる。

 

<今後の展開>

今回は内殻電子励起スペクトルに利用しましたが、本手法は赤外分光やラマン分光など励起状態が関わるスペクトルを、基底状態の情報だけから高速かつ高精度に予測することが可能なため、物質の構造解析や、環境物質調査に要する時間を大幅に短縮することができると期待されます。

本研究の一部は科学技術振興機構(JST) 戦略的創造研究推進事業 個人型研究(さきがけ)「理論・実験・計算科学とデータ科学が連携・融合した先進的マテリアルズインフォマティクスのための基盤技術の構築」研究領域(研究総括:常行 真司(東京大学 教授))における研究課題「情報科学手法を利用した界面の構造機能相関の解明」(研究者:溝口 照康)および文部科学省 科学研究費補助金 新学術領域研究(研究領域提案型)「機能コアの材料科学」(領域代表者:松永 克志(名古屋大学 教授))における計画研究「情報科学による機能コア計算設計」(研究代表者:溝口 照康)の支援を受けて行われました。

 

発表雑誌

雑誌名:「npj Computational Materials」(オンライン版:日本時間6月3日掲載予定)
論文タイトル:Learning excited states from ground states by using an artificial neural network
(人工ニューラルネットワークを用いた基底状態からの励起状態の学習)
著者:Shin Kiyohara, Masashi Tsubaki, and Teruyasu Mizoguchi
(清原 慎、椿 真史、溝口 照康)
DOI:10.1038/s41524-020-0336-3


用語解説

注1)励起状態と基底状態
基底状態は安定な状態で、励起状態は不安定な状態のこと。例えば、電子の励起を考えると、下図の真ん中では、電子が入る「場所」=軌道に下から電子が入っていて基底状態なのに対し、外部からエネルギー(X線、電子線、熱など)が与えられることで、エネルギーの高い軌道に電子が励起する。その状態が励起状態。励起状態にはいろいろな種類があり、今回は下図右側のように、非常にエネルギーが低い軌道にあった電子が励起したことによる励起状態を予測している。[参照元へ戻る]

励起状態と基底状の説明図

注2)スペクトル
入射する光の吸収や発光などで得られる情報。赤外線からX線、電子線などさまざまな入射光が用いられる。本研究では、電子やX線を用いて測定される内殻電子励起分光スペクトルを対象とした。横軸にエネルギー、縦軸に吸収量をプロットして得られる2次元情報。[参照元へ戻る]
注3)理論計算
スペクトルを解釈し、原子配列や電子構造に関する情報を得るための計算法。特に、内殻電子励起分光法では、非常に計算時間を要する計算方法が使用される。[参照元へ戻る]
注4)結晶とアモルファス
原子が周期的に配列したものが結晶で、(長距離の)周期性を持たないのがアモルファス。下図左側は、SiO2の結晶(α-quartz)で、右側はアモルファスSiO2の原子構造。[参照元へ戻る]

結晶とアモルファスの説明図

注5)ニューラルネットワーク
脳を模した機械学習の手法で、入力データと出力データの間を多層のネットワークでつなぐ方法。本研究では、入力データが基底状態のスペクトルで、出力データが励起状態のスペクトルとなっている。教師あり学習によりネットワークのつなぎ方を変え、出力データの予測精度をあげることができる。[参照元へ戻る]
注6)内殻電子励起分光法
主に電子線やX線を用いて測定され、電子が励起した際に生じる吸収スペクトル。スペクトルには物質の原子配列や電子構造に関する情報が含まれており、特に、透過型電子顕微鏡を用いて測定される内殻電子励起分光法は「究極の分析法」とNature誌に紹介されるほど強力。[参照元へ戻る]
注7)励起状態と基底状態の電子構造のちがい
上記の注1)のように、基底状態では安定な軌道に電子が詰まっているのに対し、励起状態では、低い軌道から高い軌道に電子が励起する。そのような励起に伴って電子構造が大きく変化することが知られている。下図の左側が基底状態の電子構造の計算結果。凹凸の位置が原子位置に対応している。結晶では、2種類の凹凸が周期的に並んでいる。一方で、下図右側は、中心の原子を励起状態にした場合の電子構造の計算結果。電子構造が大きく局在(まん中が火山のように盛り上がっている)しており、基底状態と大きく異なる電子構造が作られる。[参照元へ戻る]

励起状態と基底状態の電子構造のちがいの説明図



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