「自分たちの組織をどうつくるのか」という問いに、真剣に向き合えた時間
産総研設立の頃を振り返ると、正直なところ「大変だった」という思いがまず浮かびます。きっかけは1996年の橋本龍太郎首相による行政改革で、工業技術院をこの先どうするのか、独法化に向けて本格的な検討が始まりました。2001年の設立を前に、15あった研究所から人が集められてワーキンググループがつくられ、私は研究分野や研究所の再編を議論する分野ワーキングに参加しました。
そこで交わされていた議論は、決して机上の空論ではありませんでした。どの分野を残すのか、どこを統合するのかという話は、人の異動や生活そのものに直結します。特に地域センターでは、テーマが変わるということが、そのまま「住む場所を変えること」につながりかねない。名古屋工業技術研究所の立場として、産総研の中でどう位置付けてもらえるのか、これは私自身にとっても大きなプレッシャーでしたし、危機感は相当なものでした。
会議の進め方も、今思えばかなり独特だったと思います。トップダウンで誰かが決めるのではなく、とにかく徹底的に議論する。自分たちの研究が社会にとってどんな意味を持つのか、なぜこの分野が必要なのかを、ロジックで説明し、相手に納得してもらわなければ前に進まない。意見の違いは当然ありましたが、感情的なぶつかり合いになることはなく、理にかなった説明があれば、最終的には皆が受け入れる。そういう文化があったと思います。
議論は夜遅くまで続くことも多く、10時を過ぎても終わらないことは珍しくありませんでした。平日は東京でワーキングに出席し、週末は名古屋に戻って職場で作戦会議をする。正直、体力的にはきつかったですが、それ以上に「自分たちの組織をどうつくるのか」という問いに、これだけ真剣に向き合えた時間は、そう何度もあるものではありません。振り返ってみると、あれほど非日常的で、やりがいのある時間はなかったと思います。
結果として、地域センターを一つもつぶすことなく、工業技術院時代の研究機能を引き継いだ形で産総研はスタートしました。産業技術総合研究所という名前も、特徴がぼけていると言われることはあるかもしれませんが、当時は行革の波に飲み込まれないよう、まずは組織を守り、日本の産業技術を支える研究を続けていこうという強い思いがあった。その思いが、この名前に込められていたのではないかと、今になってしみじみ感じています。