発表・掲載日:2015/10/27

呼気で肺がんのスクリーニング

-健康管理のための呼気ガスセンシングシステムの開発-

ポイント

  • 呼気の成分から肺がんの可能性を定量化し、スクリーニングするための技術
  • 大規模な分析装置を使わずに、生体ガス濃度を計測できるコンパクトで簡便な機器
  • 呼気水素濃度分析の健康管理への応用に期待


概要

 国立研究開発法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という)無機機能材料研究部門【研究部門長 淡野 正信】電子セラミックスグループ 申 ウソク 研究グループ長、伊藤 敏雄 主任研究員は、フィガロ技研 株式会社【代表取締役 天本 太郎】(以下「フィガロ技研」という)と共同で、健康管理のための呼気ガス検知器を開発した。あいち健康の森健康科学総合センター、愛知工業大学、愛知県がんセンターと共同して、開発した呼気ガス検知器の実証実験を行っている。

 水素ガスは腸内細菌の活動を示すので、健康・生活習慣との関係を明らかにするため、ガス種選択性に優れた熱電式水素センサー素子を用いて直接呼気中の水素ガス濃度を測定できる呼気水素検知器プロトタイプを試作した。2年間でのべ834名のボランティアの呼気水素を分析し、水素ガス濃度と健康状態・生活習慣との相関を明らかにした。また、肺がんの早期発見を目指して、肺がん患者のがん切除手術前後の呼気ガス成分を統計学的に比較・分析し、呼気中の揮発性有機化合物(VOC)から複数の肺がんマーカー物質の組み合わせを見出した。複数のマーカー物質の濃度から、肺がん患者と健常者とを高精度で識別できるアルゴリズムを開発し、濃度が数ppbレベルのマーカー物質を検知するために、開発した高感度半導体式VOCセンサーと共に簡易ガスクロマトグラフィー型呼気VOC検知器プロトタイプに搭載した。現在、開発した呼気検知器の臨床試験と改良を進めており、平成29年の実用化を目指す。

 これらの技術の詳細は、平成27年10月28日~30日に新潟で開催される日本機械学会第7回マイクロ・ナノ工学シンポジウムで発表される。

開発した呼気水素検知器プロトタイプ(左)、呼気VOC検知器プロトタイプ(右)(デザイン担当:椙山女学園大学 滝本 成人 教授)の写真
開発した呼気水素検知器プロトタイプ(左)、呼気VOC検知器プロトタイプ(右)(デザイン担当:椙山女学園大学 滝本 成人 教授)


開発の社会的背景

 人間の肺では吸い込んだ空気と毛細血管の間でガス置換が行われるため、呼気中には血液中に溶け込んでいるガスが多く含まれており、健康状態のモニタリングに役立つ多くの情報が含まれていると考えられる。既に多くのガス種が呼気分析による人間の状態モニタリングや疾病の発見のために利用されている。しかし、呼気分析では高いスキルをもつ専門家が高価な分析装置を用いる場合が多く、卓上型や携帯型で、簡便に操作できる呼気検知器の実用化が求められている。また、多数の健常者と患者の呼気を計測する実証試験を行い、呼気検知器に高い信頼性と感度を確保することが必要である。

研究の経緯

 愛知県では平成23年度から平成27年度の期間、医工連携による研究開発を地域産業振興に結びつける、「知の拠点あいち」重点研究プロジェクト「超早期診断技術開発プロジェクト」を推進してきた。これまでにガスセンサーの開発を行ってきた産総研は、このプロジェクトの支援を受けて、サブテーマ「非侵襲的な生体ガス計測システムの開発」をリードし、生体ガス検知機器開発とそれを活用した臨床研究を推進して、呼気による健康管理・健康診断システムの開発に取り組んできた。

研究の内容

 産総研が開発した熱電式水素センサーは、一般的な半導体式の抵抗変換によるガス検知原理ではなく、熱電変換と触媒燃焼を組み合わせた新しい原理で水素を検知するので、湿気や共存する他の可燃性ガスの影響を非常に受けにくい。このセンサーの特長を活かして、呼気中の水素ガス濃度を高感度に検知できる呼気水素検知器プロトタイプをフィガロ技研と連携して開発した(産総研TODAY 13巻5号 [PDF:1.1MB])。この検知器を用いて、あいち健康の森健康科学総合センター、愛知工業大学において、ボランティアの呼気計測を行った。

 平成26年度は、あいち健康の森健康科学総合センターにおいて、ボランティア426名を対象として、呼気中の水素ガス濃度の測定と生活習慣等に関する質問紙を用いた調査を行った。その結果、(1)一般健常者の呼気水素ガス濃度の平均値は20.2ppm(標準偏差21.1ppm)であること、(2)60~89歳女性においては呼気水素ガス濃度平均値が有意に高値であること、(3)呼気水素ガス濃度との関係について、排便回数は対象者全体で正の相関、牛乳摂取は女性で正の相関、運動習慣の有無は女性で正の相関、運動頻度は男性で負の相関がそれぞれあることを明らかにした。

 平成27年度の実証実験では、健康診断(問診・血液検査を含む)の受診者のうち、協力が得られたボランティア408名を対象として呼気中の水素ガス濃度を測定した。一方、愛知工業大学では、人の日常の呼気水素ガス濃度の変動を測定し、水素ガス濃度は、日中の時間帯や摂取した飲食物によって大きく影響を受けることが明らかになった。

 今回開発した呼気VOC検知器は、VOCを捕集しやすい吸着剤で吸着・濃縮し、濃縮したガスを分離カラムで分離し、高感度の半導体式センサーで分離した低濃度のVOCを検知する。数ppbレベルの疾患マーカー物質を検知できる。肺がん患者107人と健常者29人の呼気ガス成分と濃度を分析装置にて計測し、得られた結果を統計的に解析したところ、ブタン、メチルシクロヘキサン、アセトン、酢酸、フラン、プロピオン酸、アセトイン、1-メチルスチレン、ノナナールなどのVOCが肺がんマーカー物質の候補であった。また、得られた呼気ガス成分と濃度の計測結果を用い、多次元のデータを二値に分類する機械学習アルゴリズムである、サポートベクターマシン(SVM)で学習させ、被診断者に関する一個抜き交差検証を行ったところ(図1)、特定の肺がんマーカー物質のセットにより高い真陽性率と真偽性率でのスクリーニングできることが分かった。この結果に基づき、呼気中のVOC成分のデータから肺がんと健常を高精度で判定できるアルゴリズムを開発し、呼気VOC検知器プロトタイプに組み込んだ。

機械学習アルゴリズムの図
図1 機械学習アルゴリズム

今後の予定

 今後は、呼気中水素ガスについては、あいち健康の森健康科学総合センターで得られたデータを解析し、水素ガス濃度と生活習慣や血液検査結果との関連を検討する。また、呼気中のVOCについては、本プロジェクトの一環として、広島大学において呼気成分解析による肝がんと歯周病の特徴を抽出する研究を行う。

 肺がんのスクリーニング技術については、高度な統計解析を取り入れて肺がんと健常を判別するアルゴリズムを改良し、確度の向上を検証する予定である。



用語の説明

◆熱電式水素センサー
熱電変換と触媒燃焼を組み合わせた新しい原理で水素ガス濃度を計測するセンサー。水素燃焼による微弱な燃焼熱をマイクロ熱電変換デバイスで電圧信号に変えることで水素ガス濃度を検知する。湿気の影響や他の可燃性ガスの影響を非常に受け難いという特長を持つ。[参照元へ戻る]
◆揮発性有機化合物(VOC)
揮発性有機化合物は常温で揮発し易い有機化合物の総称で、英語表記のVolatile Organic Compoundsの頭文字からVOCと表記されることが多い。呼気中には、口臭、代謝、疾患に由来する数多くの種類のVOCが含まれているが、これらの濃度は概ね数~数百ppbの低濃度である(ppbは10億分の1)。疾患に由来するVOCを特定し、低濃度VOCを高精度で分析する技術が確立されれば、新たな疾患のスクリーニングや診断技術となることが期待されている。[参照元へ戻る]
◆肺がんマーカー物質
肺がんが存在する事によって出現し、肺がんの目印 (マーカー)となる物質。肺がん診断の目安となる。[参照元へ戻る]
◆ppb
パーツ・パー・ビリオン (parts per billion)、10億分の1。十億分率。[参照元へ戻る]
◆半導体式VOCセンサー
半導体材料の微粒子で構成された厚膜の電気抵抗値変化を読み取ることでガス濃度を検知するセンサー。VOC分子が微粒子に到達すると、微粒子表面に吸着した酸素を消費して燃焼し厚膜の抵抗値が減少する。VOC分子濃度が減少すると大気中の酸素が再吸着し厚膜の抵抗値が増大する。そのため、厚膜の抵抗値はVOC濃度に依存する。[参照元へ戻る]
◆半導体式の抵抗変換によるガス検知原理
酸化スズを代表とする半導体式ガスセンサーは還元性ガスである可燃性ガスにセンサーが曝露されると電気抵抗が下がる性質をもつ。この性質をガス検知の原理として利用している。[参照元へ戻る]
◆サポートベクターマシン(SVM)
二つのクラスのいくつかの点を分類し識別するのに、訓練サンプルから各データ点との距離が最大となる境界線を引くように線形入力素子のパラメータを学習するアルゴリズム。特に、異常を自動的に検出・識別する方法として注目されている。[参照元へ戻る]
◆一個抜き交差検証
標本群から1つをテスト事例として除いておいて、残りのデータで識別モデルを構築する。除いておいたテスト事例を、識別モデルが正しく分類するか検証する。この手続きを、全部の標本が一回ずつテスト事例となるまで繰り返す。[参照元へ戻る]
◆真陽性率と真偽性率
陽性(または偽性)のものを正しく陽性(または偽性)と判定する確率をいう。これらが高ければ陽性症例を見逃しにくくなる。[参照元へ戻る]



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