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発表・掲載日:2007/07/02

レチナール分子1個の動的観察に成功

-「ものが見える」仕組みの第一段階を単分子レベルで観察-

ポイント

  • 目の網膜内で光により形を変えるレチナール分子の構造変化を単分子レベルで観察。
  • カーボンナノチューブに閉じ込めたレチナール分子のシス・トランス異性体の識別に成功。
  • 生体機能を原子・分子レベルで解明する新手法であり、幅広い応用が期待される。

概要

 独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 吉川 弘之】(以下「産総研」という)ナノカーボン研究センター【研究センター長 飯島 澄男】カーボン計測評価チームの 末永 和知 研究チーム長と劉 崢 研究員および、ナノテクノロジー研究部門【研究部門長 横山 浩】自己組織エレクトロニクス研究グループの片浦 弘道 研究グループ長と柳 和宏 研究員らは、独立行政法人 科学技術振興機構【理事長 沖村 憲樹】(以下「JST」という)と共同で、生体分子一つ一つを電子顕微鏡で観察する手法を考案しました。具体的には、目の網膜内で光により構造変化を起こす「レチナール」という分子を、フラーレン分子と結合させることによりカーボンナノチューブ内に閉じ込め、単分子の構造変化を直接観察することに成功したものです。

 レチナール分子には構造上シス形とトランス形があり、光によってシス形からトランス形への構造変化を起こします。その変化が視覚(網膜に入った光が電気信号となり視神経を伝わり脳に伝達される)の第一ステップとされますが、単分子レベルでレチナール分子のシス形とトランス形を識別したのは世界初です。

 生体分子をカーボンナノチューブに閉じ込めて観察する手法は、生体機能を原子・分子レベルで解明していくための新しい手段であり、今後幅広い応用が期待されます。

 本研究の詳細は、Nature Nanotechnology 2007年7月号(7月1日(英国時間)オンライン公開)に発表される予定です。

レチナール分子の図
カーボンナノチューブに閉じ込められたレチナール分子。左:シス形、右:トランス形


開発の社会的背景

 最近の分子生物学においては、生体機能の基礎的理解のために、単一分子を直接観察する単分子イメージング技術の需要が急速に高まっています。電子顕微鏡は光学顕微鏡などと比較すると空間分解能が非常に高く、単分子レベルの構造の観測も可能ですが、生体分子については単分子レベルでの観察の成功例は多くありません。それは、生体分子が電子線によるダメージを受けやすく、観察中のダメージを軽減する手法や、観察するための試料の固定法などが確立されていないためでした。目の網膜内で光を感じて形を変えるレチナール分子など、炭素の二重結合(-C=C-)に起因するシス形とトランス形の構造変化の観察は、視覚のメカニズムを分子レベルで理解する上で非常に重要ですが、高い空間分解能と観察精度が要求されるためこれまでには実現されていませんでした。

研究の経緯

 産総研は、研究ミッションとして「有機分子・生体分子を含むカーボン物質の原子レベルでの評価技術開発」に取組んでおり、「ナノチューブ内に束縛された原子・分子の構造制御と物性解明」(文部科学省 科学研究費補助金)を目指していました。それらの成果を生かして、特に2006年度からは、JSTの戦略的創造研究推進事業チーム型研究(CREST)「ソフトマターの分子・原子レベルでの観察を可能にする低加速高感度電子顕微鏡開発」(研究代表者:末永 和知)で具体的な装置の開発に取り組んでいます。これらの研究課題では、「有機分子・生体分子を、あたかもその分子模型をみるようにその構造変化を観察する」ことを目標としています。特に、カーボンナノチューブの中に分子を閉じこめ動きを遅くし、かつ、電子線の作用による熱や電荷の発生を抑え、また、隣り合う分子同士の化学反応の可能性をなくすことで、単一分子を直接観察する方法を考案してきました。これらの技術に加えて、本研究では電子顕微鏡の加速電圧を低く保ったままでも空間分解能(電子顕微鏡の解像度)を改善させることができる磁界レンズの球面収差補正技術を導入して、空間分解能を0.21nmから0.14nmにまで向上させました。これらの技術を駆使して単一分子のシス・トランス異性体の識別を試みました。

研究の内容

 本研究は、視物質の「ロドプシン」というたんぱく質の中で光を感じる部分(光受容体)である「レチナール」という分子を単分子レベルで電子顕微鏡によって観察することを目指しました。特にレチナール分子のシス形とトランス形の識別と双方の動的観察は、視覚の第1ステップであるレチナール分子の挙動を理解する上で極めて重要です(図1)。そのためにはレチナール分子を安定化して、単分子で固定化することが必要ですが、レチナール分子をフラーレン分子と結合させ、それをカーボンナノチューブ内部に入れることで、電子顕微鏡観察を可能にすることを試みました。

網膜内でのレチナール分子の光異性化の模式図
図1 網膜内でのレチナール分子の光異性化の模式図(シス形からトランス形への異性化)

 まず、レチナール分子がフラーレン分子に結合した物質を合成しました(図2)。フラーレン分子はカーボンナノチューブの内側に入りやすい物質として知られていますが、フラーレン分子にレチナール分子を結合させることで、ともにカーボンナノチューブに取り込まれると考えられるからです。本研究では、先端の開いたカーボンナノチューブを、レチナールとフラーレンが結合した分子の飽和したクロロホルム溶液に加え、加熱しました。この操作によりレチナール分子をカーボンナノチューブ内に取り込むことに成功したことが電子顕微鏡観察により確認されました。カーボンナノチューブは熱や電荷を通しやすいため、分子がカーボンナノチューブに取り込まれることで安定化する例はいくつか知られていますが、レチナール分子も安定化し電子顕微鏡観察に耐えられることが分かりました。また、フラーレンの丸い構造は電子顕微鏡で見つけやすく、目的とするレチナール分子を簡単に見分けるマーカーとしても働きました。

フラーレン分子と結合したレチナール分子の図
図2 フラーレン分子と結合したレチナール分子(左:シス形、右:トランス形)

 図3は、我々が観察したレチナール分子の電子顕微鏡像です。レチナール分子が途中で折れ曲がった「シス形」(左)と、より直線に近い「トランス形」(右)が明確に識別できます。これは、炭素・炭素二重結合(-C=C-)構造の直接観察が可能になったこと示し、基礎科学的にも極めて重要な成果です。カーボンナノチューブによる分子の保護効果と、電子顕微鏡の空間分解能の向上があいまって得られた結果といえます。動画では、観察中に刻々と構造を変えるレチナール分子の像が見られます(図4)。ここで観察されるレチナール分子構造の時間変化は、ヒトがものを実際に見ているときの網膜の中でのレチナール分子の動きを模倣していると考えられます。実際のレチナール分子はロドプシン(たんぱく質)の中に閉じ込められていて、カーボンナノチューブに閉じ込められているレチナール分子と全く同じ状態にあるわけではありませんが、基本的な構造変化はほぼ同じであると予想されます。また、電子顕微鏡での観察中に光は照射されていませんが、電子線を当てることによって構造が変化しています。シス形からトランス形への変化は光によるものと同じと考えられます。すなわち、この動画を見ている人の網膜の中のレチナール分子は、今回、電子顕微鏡で観察したものと同じ動きをしていると思われます。

電子顕微鏡で撮影されたカーボンナノチューブ内のレチナール分子画像
カーボンナノチューブ内のレチナール分子の模式図1
カーボンナノチューブ内のレチナール分子の模式図2
図3 電子顕微鏡で撮影されたカーボンナノチューブ内のレチナール分子とその模式図
シス形(左)とトランス形(右)が明確に識別できる。丸く見えるのがフラーレ
ン分子。矢印がシス形とトランス形に変わる部分を示している。


今後の予定

 レチナール分子の構造変化が明瞭に捉えられたことで、同様の機能を持つバイオセンサーの開発や、また他の生体機能を原子・分子レベルで理解することに繋げていく予定です。



用語の説明

◆レチナール
レチナールはロドプシン内の発色団で、光(可視光)を吸収する役割を持つ。可視光を吸収するとシス・トランスの異性化などの構造変化が起こり、ロドプシン全体が構造変化し、その信号が視神経を通して脳に伝わる。レチナールの構造はビタミンAとよく似ており、実際にビタミンAから作られる。ビタミンAが不足すると鳥のように夜目が見えなくなる、いわゆる鳥目になるのは、実際にはレチナールが不足するため。[参照元へ戻る]
◆フラーレン
炭素原子からなる籠状の分子。とくに60個の炭素原子からなるサッカーボール型のC60分子がよく知られている。カーボンナノチューブの中にとくに取り込まれやすく、電子顕微鏡観察においても球殻状の形状から認識しやすい。[参照元へ戻る]
◆カーボンナノチューブ
炭素からなる極細の円筒状物質。ここで扱われる単層カーボンナノチューブは、直径が1~2nmほどで、内部空間にさまざまな物質を取り込むことができる。とくに電子顕微鏡観察において試験管の役割を果たすことが示されてきた。[参照元へ戻る]
◆シス・トランス異性体(幾何異性体)(cis-trans isomers)
有機分子や錯体の異性体の一種。炭素の二重結合に2つずつの異なった基が結合する場合は、主鎖(炭素数最多の鎖)となる炭素骨格が同じ側(同じ炭素ではない)につくとシス (cis) 形、反対側につくと トランス (trans) 形の幾何異性体となる。[参照元へ戻る]
◆球面収差補正
電子顕微鏡の分解能は、「入射電子の加速電圧」と「レンズの球面収差」の二点で決まる。球面収差補正は電子顕微鏡の分解能を向上させるため、対物レンズの収差(球面収差)を補正する新技術で、加速電圧を上げることなく分解能を向上させることができる。[参照元へ戻る]
◆ロドプシン(光受容膜たんぱく質)
網膜にある視細胞で、目に入った光を電気信号に変える。オプシン(7本のαへリックス)とレチナール発色団からなる。視覚のメカニズムの最初のステップを担う物質である。[参照元へ戻る]
◆コンフォメーション(立体配座、conformation
相互に変換可能な空間的な原子の配置のこと。とくに生体分子は各結合の立体配座が変化することで立体構造全体が大きく変化する。[参照元へ戻る]


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