読んで学ぼう
2020年8月更新
作:蔵田武志
ものすごく忙しいときに、「あーあ、もう一人自分がいたらなあ」と思ったことはありませんか? そんなことは一度もないですって!? それは、あなたの能力が人一倍優れているか、よほど暇なのか…。
そのような方には縁がないかもしれませんが、もう一人の自分が近くにいて、いろいろ助けてくれるとしたらとても助かるとは思いませんか?例えばあなたが物忘れをした時に、誰にも気づかれずに教えてくれるとか…。
それって守護霊じゃないかって?
違います! 違いますが、しいて言えば、デジタル守護霊といったところでしょうか?
さて、そのデジタル守護霊ですが、どこにいるかというと、ご主人様の体にピッタリと密着しているのです。例えば頭とか、耳とか、腕とか…。で、何をしてくれるのかというと、ご主人様が見ている場所にはない情報を教えてくれたり、ご主人様が忘れてしまったことを思い出させてくれるのです。
それでは、このデジタル守護霊に取り付かれた、ある会社員A氏の朝をのぞいてみましょう…。
朝7時、目覚まし時計で目を覚ますA氏。
顔を洗ってメガネをかけ、壁のカレンダーを見ます。そこには何も書き込まれてはいません。それでも、その日の予定を確認したかのようにA氏はうなずきます。
次に新聞のスポーツ欄に目を通します。日本時間の明け方近くに終わったサッカーの海外遠征試合の結果は、朝刊には間に合わなかったようです。「フーン、引き分けか」、ポツリとつぶやくA氏。新聞記事には前半の結果しか出ていません!?
まるでA氏は超能力者のようです。昔の言葉で言えば、千里眼でしょうか。でもそうではありません。デジタル守護霊のおかげなのです。その守護霊の正体、さっそくのぞいてみましょう。
ウェアラブルという言葉、どこかで聞いたことはありますか? Wear(着用)とable(~できる)を合わせた言葉で、“着用できる”という意味です。
たとえば、このウェアラブルの研究をしていた当時、携帯電話やPHSの端末はどんどんコンパクトになり、重量も軽くなって、首にぶら下げている人もしばしば見受けられました。今なら言うまでもなくスマートフォンですね。
これらは限りなくウェアラブルに近い情報端末と言えるでしょう。そのウェアラブル、つまり着用可能なコンピュータを、ウェアラブルコンピュータと言います。そして着用可能な視覚映像装置はウェアラブルビジョンと言います。
実は、冒頭でお話しした“デジタル守護霊”の正体は、産業技術総合研究所(産総研)で研究開発されたウェアラブルビジョンで、2000年頃に「ビズウェア」と名付けられました。
携帯電話などは手で端末を持たなければ画像を見ることが出来ませんが、ビズウェアであれば着用したままで見ることが可能です。言ってみれば体の一部のようなもので、産総研ではメガネや時計型、さらにはちょっと見ただけではどこに装着しているのか分からないような端末形態も開発していました。
つまり、どのようなモノを使うかは、使用者の使い勝手やファッションセンスの問題になるわけです。
実はその当時から、「ウェアラブルファッションショー」なるものも、既に開催され始めていました。また、同じくその当時、「近い未来には、ブランド物のウェアラブルビジョン付きメガネや時計が流行するかもしれませんね!」、と言っていましたが、実際、多くの有名企業からも製造、販売されるようになりました。
さて、ビズウェアはどのように着用者の能力を広げることが出来るのでしょう。
まず、記憶をサポートする能力から見ていきましょう。
人間の記憶には限界があります。特に高齢になれば、物忘れはいやでも多くなります。例えば、見覚えのある顔なのにどうしても誰だか思い出せないことってありますね?
そんなときにメガネに装着されたカメラが相手の顔をとらえ、その画像情報が無線でコンピュータに送られ、コンピュータが照合する過去のデータを取り出し、やはりメガネに装着された液晶ディスプレイに表示するわけです。
名前から年齢、職業、どこでいつ会ったことがあるのか…。
もちろん高齢者に限らず、1日に大勢の人をチェックしなくてはならない職業、例えば会社の入り口で不審者の入場をチェックするガードマンなどにも強い味方になります。
さらに、視覚障害者の日常生活や仕事の場面での支援技術の研究も継続的に進められています。
千里眼なんて言葉は最近あまり耳にしませんが、要するに遠くの出来事や未知のモノの存在を直感的に知ることの出来る、一種の超能力のこと。そんな力があったらサッカーくじは大当たりだなんて、不謹慎なことを考えているのは誰ですか…?
実は、ビズウェアを装着すれば、あなたもその千里眼の能力を身につけることが出来るのです。つまりインスタント千里眼というわけです。
例えば何も書いてないカレンダーを、ビズウェアを装着して見たとします。するとカレンダーにだぶって中空にスケジュール表が現れ、予定を確認することが出来ます。
壁に貼ってある、イベントのポスターを見ます。するとポスターにだぶって、イベントの出演者が変更になったことが、おわびとともに中空に現れます。
このように、実際に見ているシーンの上に、それ以上の情報が現れるのです。
さらに目の前の空間や机の上にキーボードを出現させ、指で操作することも可能で、目の前にインターネットのウェブ画像を表示することも出来ます。このようすをはたから見ると、素手で周りに念力を送っている気功師のように見えるかもしれませんね。
「コンピュータに気が利いたことをしてほしい」。産総研の研究員がそう考えたことが、ビズウェア開発の発端になりました。
気の利いたことをしてもらうということは、コンピュータをいちいち操作するのではなく、ちょっと困ったときなどに、コンピュータの方で状況を把握し気を利かせてくれなくては困ります。
つまり「人間中心」という発想で目端が利くことが必要で、キーボードやマウスが苦手なお年寄りのことも考えたシステムだと言えそうです。
ウェアラブルシステムをいかに活用していくのかを考え、そのための技術を開発する研究は、古くはアメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)内の研究機関であるメディアラボなどで進められていました。
一方、産総研では、パノラマベースドアノテーションやWACL(ウェアラブルアクティブカメラレーザー)などの技術を世界に先駆けて2000年代前半に開発し、それが後の屋内測位技術の開発、視覚障害者移動支援の研究、サービス業・製造業での改善支援の研究などに繋がっています。
ビズウェアの機能は、いろいろなシチュエーションでの活用が考えられそうです。
たとえば博物館や美術館でのナビゲーションシステム。ビズウェアを装着すれば、知りたい情報を自由に検索することが出来るので、モノや作品だけが展示された博物館や美術館が登場するかもしれません。
それから、家庭内の家電製品のスイッチのオン・オフを、目の前に現れたボタンですべてコントロール出来るなんてことも可能です。
そのほか、考えれば無限の可能性を秘めたビズウェア。あなただったらどんな使い方をしますか?
パノラマベースドアノテーションのような技術は、GPSになぞらえて、VPS(ビジュアルポジショニングシステム)と呼ばれたり、AR(拡張現実)と呼ばれたりしていて、スマートフォンで利用できるような時代になりました。ただ、それは、産総研の技術というわけでは必ずしもありません。
産総研の技術の実用化は、研究者が当初思い描いていたのとは違った方向で進みました。位置や向きを割り出すための画像処理を軽くしようと、加速度センサやジャイロといったカメラ以外の小型で安価なセンサを活用したPDR(歩行者向け相対測位)やVDR(車両向け相対測位)といった手法を開発したところ、その発想のユニークさが功を奏して、複数の企業の製品やサービスに採用され、産総研発ベンチャー企業も事業展開を進めています。
このような技術の実用化展開に応える形で、測位性能を競うコンペティションの運営にも関わり、そのコミュニティは国内外で広がってきています。次の技術の種がそこで芽生えそうな気配がしています。