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化学の世界の調律師!?1億分の1の世界に挑む!

2020年9月更新

化学標準物質

コンサートに行くと、ギタリストが演奏の前に、よくギターを調整して音を確かめていますよね。何をしているのでしょう?

ギターやバイオリンを弾く人なら勿論分かっていると思いますが、あれはいわゆるチューニング-調律-をしているのです。つまり、正しい音を奏でられるよう、弦の張りを調節しているわけです。

ところで、音に敏感なプロのミュージシャンであれば自分の耳を頼りにチューニング出来るのですが(このような人を、絶対音感のある人と言います)、普通はなかなかそうはいきません。そこで登場するのが音楽の授業でおなじみの音叉(おんさ)、あのU字形をした金属の道具です。例えば正しくA(ハ長調のラ:440ヘルツ)の音が楽器から出ていれば、Aの音叉は共鳴して震えます。正しく調律されたピアノがあれば、その音と比較して調律することも出来ます(ピアノの調律は調律師が行います)。つまり基準となる音に合わせて、楽器から出る音を正していくわけです。音階そのものは絶対音を無視して作れますし、単独でメロディを奏でるだけなら美しい音楽を表現することが可能です。でも、複数の楽器でハーモニーを奏でる場合は音の高低差が出来てしまい、不協和音になって音楽にはなりません。

実は、一定量の物質の中に含まれる元素や化合物の量を測る化学分析の世界にも、同じことが当てはまるのです。

分析する試料を分析機器の中に入れれば、ある物質を含むことを示すシグナルが出てきます。でも、どれだけその物質が入っているかを調べるには、分析機器のチューニングが必要です。この場合のチューニングというのは、分析機器に正しい目盛りを覚えさせること。そのためには、あらかじめ量の分かったもの(例えば0.1パーセントの水銀が含まれる水溶液)を分析機器に入れてやります。そして、その分析機器が示した目盛りが、分析機器に入れた物質の割合(この場合、水銀0.1パーセント)に当たるわけです。この、あらかじめ量の分かったものは、「標準物質」と呼ばれます。

つまり、ギターなどの楽器に当たるのが分析機器、その楽器(分析機器)を調律するための音叉が標準物質だと言うわけです。

図1

いろいろな調律師

質量や長さを測る場合は、それぞれ1キログラムや1メートルという量を決め、それを基準に、ほかの物の量を測ることが出来ます。でも、化学物質の量を測る場合は、そう簡単にはいきません。例えば海水中の水銀の濃さ(濃度)を測るには、水銀の濃度が分かった基準、すなわち水銀の標準物質、鉄であれば鉄の標準物質、ダイオキシンであればダイオキシンの標準物質が必要になります。つまり、分析したい物質の数だけ分析機器の調律が必要なのです。

標準物質の写真

環境基準を支える!

カドミウム、水銀、鉛、クロム…。どれもどこかで耳にしたことのある名前ではないでしょうか。ここに並べられたのは重金属の名前なのですが、その共通点はなんでしょうか? 新聞を読んでいれば分かるはずですよ。いやなイメージが浮かんだ人は正解にあと一歩。そう、これらの重金属は汚染物質として人間の体に大きなダメージを与えるものばかりなのです。これらの汚染物質は過去、深刻な公害問題を起こしてきました。カドミウムが原因の富山県のイタイイタイ病、有機水銀が引き起こした熊本県の水俣(みなまた)病…。そして二度とこのような不幸が起きないように制定されたのが、環境基準です。

研究室の写真

正しい標準と腕前がポイント

最近、貿易の手続きを簡単にするため、また、私たちの住む地球の環境を守るために、今まで以上に化学分析の結果の正しさが求められるようになりました。今のところ、世界中の国が同じ標準物質を用いて化学分析をする訳ではありません。標準物質は使えば無くなってしまうこともあり、世界中で同じ標準物質を使うことは難しいのです。その代わり、各国が用いている標準が同じ程度に正しいと言えればいいわけです。用いた標準物質が同じでも、測定した結果が異なることもあります。それは測る人の腕前が違うためなのです。化学分析には、試料を分析機器に入れる前に多くの操作が必要で、その処理を間違えるととんでもない結果が出るのです。

明治8年(1875)にメートル条約が締結され、質量や長さの基準となるもの(原器)が決められました。その原器は標準の総本山と言える国際度量衡(どりょうこう)局という機関に保管されています。この機関が主催する国際度量衡総会(委員会)が、平成7年(1995)に物質量諮問(しもん)委員会(CCQM)という新しい委員会を作り、そこで正確な化学分析に必要なことや、各国の分析結果がどの程度一致するかを調べるように要求しました。CCQMは同じ試料を各国に配り、各国は自国の標準を使って分析し、その結果を委員会に送り返します。これを国際比較と呼んでいます。この国際比較で各国の結果が一致すれば各国の標準が正しく、かつ分析した人の腕前も良いと評価できます。

パソコンを操作する研究者の写真

法規制最優先

最優先で整備しなければならない化学標準物質は、汚染物質など、法規制上必要とされるものです。特に今までの環境基準が、安全量というよりそれぞれの物質の分析限界によって決められた数値という面もあり、今後、さらに高い分析技術を研究開発していく必要があります。

汚染された川の写真
汚染された川

貿易にも一役

例えば日本の会社が銅を含む鉱石を輸入したとしましょう。輸出国は鉱石中に15パーセントの銅が入っていたと主張します。日本の会社が分析すると、13パーセントしか含まれていないという分析結果になりました。船一そう分の取引では、含有量2パーセント差は数億円の差になりかねません。さて、どちらの数値が正しいのでしょうか?

両国とも自分が正しいと主張しあえば取引は成立しません。もし、貿易相手国の標準物質と分析能力が信頼できると、どちらか一方の分析結果でも苦情は出せません。片方だけの試験(ワンストップテスティング)だけで取引できるような世の中を目指して国際比較が行われているのです。さらに、分析する機関が高い分析技術を持っていることを証明するシステムを作ったり、それを判断する基準も世界共通のものにする必要があります。ISO(国際標準化機構)はこの動きに協力し、多くの規格文書を作っています。

貿易のイメージ写真
円滑な取引のために国際比較が欠かせない

周期律表に挑戦!

皆さん、周期律表はご存じですよね。これはロシアの化学者メンデレーエフが明治2年(1869)に発表したもので、原子量順に並べた原子は、その物理的、化学的特性が周期的に変わるという法則を発見し、それを表わしたものです。ちなみに周期律表の元素は、現在118種類です。現在のところ、そのうち40種類前後の標準物質が作られています。

メンデレーエフが周期表を発見したときのノートの画像
メンデレーエフが周期表を発見したときのノート

いろいろな標準物質に挑戦!

産業技術総合研究所(産総研)では、計測機器を正しく校正するために必要な金属・非金属イオン標準液、標準ガス・有機標準液などの標準物質の開発を行っています。さらに、分析方法の評価などに必要な環境・食品分析用の標準物質、臨床検査・バイオ分析用の標準物質、材料分析用の標準物質などの開発にも取り組んでいます。難しい言葉ばかりが並んでしまいましたが、産総研はいろいろな化学標準物質、「化学のものさし」の開発に挑戦しているのだと理解してください。

信頼できる不確かさ?

誘導結合プラズマ発光分析装置の点灯シーンの写真
誘導結合プラズマ発光分析装置の点灯シーン

誤差という言葉を聞いたことありますよね。誤差とは「測定して得られた値(測定値)と本当の値(真の値)の差」を意味します。誤差が大きいと信頼性が低いということになります。しかし、多くの場合、本当の値は分からないのです。計量の世界では、誤差という言葉を使わずに、「不確かさ」という言葉を使って測定値の信頼性を表します。身近な例で説明してみましょう。

例えばあなたが風邪をひいたとします。体温計で熱を測ってみたところ37.2度でした。続けて二度、三度と測ってみると36.9度であったり37.0度であったりするかもしれません。測り方を厳密には同じにできないために、このように異なる値が出てくることがあります。しかし私たちはその結果から、「だいたい37.0度くらいなんだな」と判断するわけです。この「だいたい」というあいまいさを定量化しようとするのが不確かさなのです。

ところで、そもそも体温計の目盛りが狂っていたらお話になりません。ですから、出来る限り正しい目盛りをつけるということが、もっとも大事なことなのです。

産総研ではいろいろな量について、目盛りの正しい基準をいつでも与えられるようにしています。標準物質についても同じことで、より信頼できる正しい基準を世の中に提供できるようにすることが、私たちに求められていることなのです。

研究室での作業風景の写真
研究室での作業風景