Vol.6 No.1 2013
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−6−Synthesiology Vol.6 No.1(2013)座談会:科学・技術・イノベーション時代の新しい研究方法と、そこから始まる社会が求めているものに対して役に立つかもしれないという仮説のもとでの一種のキュリオシティドリブンと言えるかもしれないと私は思っています。独自シーズを活かした目的基礎研究や分野融合による新たな社会価値創成研究としてのSynthesiologyの役目があると思います。一方、社会から見ると、それだけでは社会的価値にまで結びつかないので、市場価値・社会的価値にまで持っていく全体のプロセスをアーキテクチャーとして設計し、それを実行するエンジン役として引っ張ってくれるSynthesiology、この2つの課題に取り組まないといけないのではないでしょうか。吉川 Synthesiologyではイノベーションをする人に渡せるところまでやろうと言っているので、具体的なイノベーションの担い手や、それが社会に対してどういうインパクトがあるかということについて十分検討しなければ論文になりません。ややラジカルに言えば、出発点はキュリオシティなのです。「天体はなぜ動いているのか」と「明日の地球が滅びてしまうのではないか」、これはどちらもキュリオシティです。天体については説明できれば「良かった」となる。地球がどうなるかについては「大変だ」ということになって、すぐ行動に移り、それが具体的なイノベーションにまでつながっていく。キュリオシティによってその後に続く人間の行動が非常に違うわけです。「それではどうしようか」につながる研究という意味では、問題を明らかにしただけでは完結しない。応用研究も、応用の対象を研究者が発見することで始まるのであるから、人間の根源的なキュリオシティから出てくるものばかりなのではないかということを言っているのです。赤松 キュリオシティドリブンとシナリオ型の仮説、同じような仮説検証だけれども思考の仕方が違うのではないかという問いかけに対していかがでしょうか。安西 抽象的な言い方になりますが、「ここでこういうことをやるとこういうことが起こるのではないか」という因果関係ですね。実際やってみて起こった、あるいは起こらなかったというのは、とにかくやってみようというトライアル&エラーのアプローチで、それに対して、結果がわかって良かった、反対にこうなると困るというのは、ある意味、因果関係の表裏と見ることができます。これを両側からやっているのだと思えば、両方がシンセシスに関与していることになる。桑原 吉川先生に質問があるのですが、Synthesiologyそのものが論文の中で単独の価値を持つべきものか、あるいは論文のわかりやすさ、起源も含めて明確にするためにSynthesiology的に書くべきであると言われておられるのか。吉川 これはチャレンジングな話なのですが、前者です。人間の知恵は断片的な科学研究が積み重なって巨大な科学知識になったわけですが、ものづくりは決して巨大な知識になっていない。ものづくりが消えてしまったら社会的にものづくりがなくなってしまう。科学は消えないけれどもシンセシスは消える、人類はものづくりを通して行われた貴重な思考を記録することができず、大損失をしているのではないか。その結果の一つが、作ってはいけないものを事前に認識できず環境を壊している結果を招いているのだから、「ものを作るとこうなるぞ」という基礎的な知識を人間は身につけなければいけないのではないかというのが私の基本動機なのです。桑原 その時にSynthesiologyはどう役立っているのでしょうか。吉川 “もの”を作る基本原理を次々に明らかにしていくということです。ある材料を作る、システムを作る、社会構造を作るということは、みんな「作る」です。それらを積み重ねていくと、次に何か新しい「作る」をしたとき、過去の経験が生かされて、こういうことをやったら地球にとって良いとか悪いということを人類がわかってくる。今は新しく作ってみて、「ああ、駄目だった」ということを依然として繰り返しているのです。桑原 目的を持ってプロジェクトマネジメント的な完成まで持っていく「ものの考え方」もいろいろあると思うのですが、それ自身が論文対象になるということですか。吉川 “もの”を作った人は、1つ論文を書いていいと思うのです。職人が「技能を盗む」と言うけれども、ああいう方法しかないと言われているわけでしょう。その人がどうやって作ったかという記録が残っていないから、次に作る人が作り方について学べない。桑原 平たく言うと、あらゆる研究はシンセシスを記述すべきであると?
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