Vol.5 No.3 2012
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−207−Synthesiology Vol.5 No.3(2012)座談会:価値の創造とシンセシスられるかどうかというプロセスに研究者自身がどこまで関与するか、についてはいかがでしょうか。「私は研究をしてちゃんと成果を出したのだから、あとは誰かに任せます」という態度の人も多いような気がしますが。石川 私は高速の画像処理をやっているのですが、デバイスや理論をつくるだけでなく、社会が理解できるシステムまで組んでいます。要素技術を醸成させるだけでなく、例えば、高速画像処理を使ってバッティングロボットまで作ります、というやり方をしています。研究者の大部分は、論文を書いたらあとはだれかが使ってくれる、特許を書けば、誰かが理解してくれて特許は買ってくれると思っています。そういうふうに研究者が思っている間は何も新しい分野は起こりません。理由は簡単で、そのできた成果を一番わかっているのはその成果を出した本人だからです。よくわかった本人を超えるほど、成果を理解し、社会の価値に繋げることができる人はいません。前述した研究成果を社会の価値に繋げるインフラが整備されていない中で、研究成果を示すだけで「あとお願い」と言うのは、自分の成果をどぶに捨てるようなものです。現状では、インフラの整備ができるまで待つか、自分でやるか、だけの選択肢しかないのであって、インフラの整備がない限りは、自分で、ある程度までやらざるを得ないわけです。本来は、このことに対して、研究者としては文句を言ってもいいと思います。ある部分は、研究者のやるべき仕事ではありませんし、インフラが整えば、研究者はアイデアを出すだけでいいわけです。ただし、このインフラ整備は組織の理解が足りない中では、大変難しく、東大でも知財、共同研究、ベンチャー等の支援組織を体系的に整備するのに5年かかりましたが、それでもまだまだやるべきことが残っていて、意識改革も含めて時間はかかります。現状としては研究者がやらざるを得ない、このことは、科学技術の発展にとって、日本特有の悲哀だと思います。小野 まさに死の谷ですね。研究者がシナリオを描くこと赤松 研究者が成果を世の中に出すプロセス自体にもセンスが要りますね。売れるものになるのはまた別問題かもしれないけれども、こういう価値があるということを具体的に社会に示していくのはすごくセンスがいることです。将来にわたって、研究者もそういうセンスを伸ばすという考え方もあると思うのです。インフラに任せてしまうと、こういうセンスを伸ばす機会が減ってしまうのではないかという気もしますが。石川 それはいろいろです。そういうセンスに対して、私は「art」という言葉が当てはまると思っています。コンピューター分野のクヌースのThe art of programmingを引き合いに出すまでもなく、科学技術も芸術性、独創性、センスが求められます。私の分野はセンシングなので、この用語をパクって、The art of sensingだと言っています。掘り下げるし、構成的なものもやるし、全体の絵を描いているのが私だぞ、と。ちょっと言い過ぎかな(笑)。赤松 まさに我々のシンセシオロジーもart of researchみたいなものだと言いたいのです。今のお話でいえば、そういうartのセンスをもっている人には発信してほしいし、もっていない人にもある種の教育を含め経験してもらい、そういう人たちの比率を上げたいと思っているのです。小野 とても楽観的な言い方をすると、社会的な価値がある研究成果を出した人はそれなりのシナリオをもっていたはずだ、と思いたい。シナリオなしで社会的な価値というのは生み出せないのではないかと思っています。ただし、後から振り返ってみるととてもいいシナリオをもっていたのに、自分ではそれに気がつかない研究者たちも結構たくさんいるように思います。シンセシオロジーの研究論文を書くことで、著者が自分にシナリオがあったことを発見することが何度かありまして、我々も驚いています。そうだったら、最初からシナリオを自分なりにつくり、それを熟成しながら研究を進めていってほしい、という気持ちですね。石川 今の時代、シナリオなしで研究をやるのは無謀です。社会の価値へ繋げる独創的な「シナリオがある」ことは絶対条件ですが、そのシナリオの書き方はいろいろあって、その多様性は維持すべきです。例えば、思考実験として、研究成果を元にベンチャーを仮につくったとして、あるいはどこかの会社に技術移転したと仮定して、自分の技術がどういうふうに社会に還元され、評価を受けるかというシナリオを書くのも一つの方法ですね。足りないものや今ま小野 晃 氏

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