Vol.4 No.2 2011
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−118−Synthesiology Vol.4 No.2(2011)座談会:シンセシオロジー3周年記念座談会たという上で、波及効果は大きかったと思います。駒井 最終的には国家で標準となる方法論を開発して、できれば法制度や社会システムの中に組み込んでほしいという思いがスタートラインです。社会にいかに普及させるか、省庁に働きかけて、お金をかけずに汚染問題を解決したい、これはリスクマネジメントの鉄則です。ただ、今、ものすごく苦労しています。製品化ができて、社会的システムも回っている。問題は、そこから先の「コストとリスク」の関係でちょっと停滞気味です。第3期は経済モデルをやるのですが、「死の谷」の2回目を迎えているような感じがします。木下 アカデミックな研究と技術移転を並行仕様とした結果、現場の研究員に非常に大きな負担がかかった場合もあります。技術移転だけ、あるいはアカデミックな研究だけではなくて、「両方必要だ」と主張したわけですが、個別の研究員に対して過度の負担がかかった場合もあるようです。赤松 木下さんがやられた現場のことを解決するための社会学的な方法論に対して、あまり価値のないことではないかとサイエンティストが思っている可能性があるのですね。それは自然科学とは違う理論があって、学問の営みの一部だと理解できることによって、気持ちが良くなるというか、つらさがなくなるのではないかという気がするのです。木下 社会学的、自然科学的の対照の他に、クオリタティブ(質的)な議論とクオンティタティブ(量的)な議論があると思うのです。量的な議論ができればそっちのほうが精密な議論ができるのでいいに決まっているわけです。しかし、どんな量を測ればいいのかが明らかだとは限りません。そこをいいかげんに決めて、その上に精密な量的議論を展開しても、砂上の楼閣というものです。計算機科学では、異なる価値の体系をいくつも相手にしなければなりませんので、量的な議論に入る前に、どんな量を問題にするべきかという議論をする必要のある場合が多いのです。そのような議論は必然的に質的議論になります。質的な議論でもある程度精密なことは言える場合もありますので、そういったことをもうちょっと強調したいと思っています。駒井 今、私も一番悩ましいところは「社会的なアプローチ」です。リスク評価技術は科学的なアプローチなのですが、一般の人にそのリスク評価の結果を受容していただけるかどうかです。自治体や企業と話しているのは社会的な受容性の部分なので、そういった分野にも産総研がこれから進出するのが私はいいと思っています。社会系の人をどれくらい採用できるかという問題はあるのですが(笑)。吉川 私も同じことを長年考えてきて、それで「設計学」というのを作るわけですが、これまで、「設計は学問ではない」と言われて、個別の設計者が作りっ放しだった。ですから、蓄積もないし、物理学のように日進月歩にならないわけですから、量的に表現できない、科学ではないと差別意識みたいなものを持って見られているわけです。それは広い意味でいうと、理学部が偉くて、工学部は偉くないという構造になっているわけですね。結局、私は「クオリタティブな問題を科学にする」方法を考えようとしたわけです。多くの問題が定性的にしかできないということは、その問題は科学の対象として大きな問題を抱えていて、それをやっている人は尊敬されるべきなのですね。木下 私は、物理学ではないものの、理学部出身なのですけれど、私達の分野では定性的な議論をしようとするのはむしろ理学部の人に多くて、工学部の人は計算機のパフォーマンス等で定量的な議論をしがちです。定量的な議論が偉くて、差別されるのは理学部のほうだったりします(笑)。赤松 諏訪さんの場合は、量的に1個でゴールが決まるのではなく、質的なものが入って循環的になっている。ある種のスパイラルを起こさないと次に行かないという気がしたのですが。駒井 武 氏吉川 弘之 氏
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