Vol.3 No.1 2010
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−79−Synthesiology Vol.3 No.1(2010)座談会:シンセシオロジー創刊2周年を迎えて要条件だけれども、「構成学」という説明可能な構造がまだ出てきていない。一つずつの論文を読むとわかるけれども、第三者が見て、そういうものが抽出できるかというと、なかなか難しい。私は、1巻2号の「サービス工学序説」の論文で書いたように、それは臨時領域だと思っているわけです。臨時領域とは、ある問題を解くために、自分がその場で考えた一つの論理体系みたいなものですね。面白いデバイスがあったとして、それをどうやって抽象的な基礎原理から具体的な装置までもってくるか、装置メーカーとどう議論するかというのは、言語性を論理性にまで高めておくことです。だけど、そこが眼光紙背に徹しても見えない。それがもう少し出てくるといいと思います。構成学を深化させる小野 我々は構成的・統合的な研究活動の成果を蓄積することによって、論理や共通原理を目指すという「構成学」を志向していますが、これを深めていくことが必要です。赤松さんは人間工学シンポジウムで「構成学としての人間工学に期待すること」という演題で発表しておられますね。赤松 内視鏡とX線の発展を比較して、内視鏡は実用化までに100年以上かかったが、X線は1年もしないうちに医療に利用されたため、ネガティブな部分を知らずに被害を与えてしまった、死の谷的な時間がある程度必要なのかもしれないという話をしました。その後、「学問領域」「社会の期待と学問の関係」「なぜ構成学が困難なのか」「構成学と工学」「構成学としての人間工学」について述べました。「学問領域」ですが、吉川最高顧問は、自然科学の「科学領域」に対して問題の対象をある程度絞って「臨時領域」を作り、それが成熟して「成熟領域」になる、これを「工学」と呼ぼうとおっしゃっている。具体的な人工物を対象として実際の問題を解決しようというのが「臨時領域」ですが、領域を作れば作るほど抽象化して、臨時領域から成熟領域になって、科学領域になっていくと分析の方法に走りがちになる。いかに適切に臨時領域に留まっていられるかということが構成のために必要です。なぜなら、領域の中の言語を作り出し、中の法則性を見出そうとすると、その法則性をより精緻化する方向に研究者の活動は向かう。自然とその領域の中の整合性をとり、美しい体系を作ろうとして分析側の方向に行き、社会に出すダイナミックスが弱くなる危険があるのではないかという話をしました。それは「なぜ構成学が困難なのか」とも絡んでいるのですが、言葉が通じなくなると統合がしにくくなり、分析的になるということです。「構成学と工学」では、工学と我々が呼んでいるのは“engineering”を訳したものですが、語源は「賢い巧みな人が物を作ること」であり、本来、工学という学問はないのだけれども、それを構成学は学問にしようとしているという対比で説明しました。複雑な人工物を作る能力のある人の営みから臨時領域である工学が生まれる、それがまさに構成学が狙っているところです。「構成学としての人間工学」ですが、科学的知識を社会に導入することをイノベーションと定義すると、「人間工学とは人間に受け入れられるような人工物を作るための学問」として構成学の一つの重要な役割を果たすのではないかということになります。人間を調べれば人間に向くものが作ることができるかというと、そう簡単なことではない。人間の特性がわかればそれに基づいた製品の評価はできるのですが、残念ながら、クリエーティブに物を作ることは、少なくとも今の人間工学ではできていない。何が欠けているかというと、例えば、「うるさい」というのは物理的な音圧との関係ですが、今、問題になっているのは、静かになればなるほど上の階の音が気になるということです。生活環境が悪いときは物理、いわゆる自然科学の言葉で語れたものが、生活環境の悪さが解決すると自然科学の言葉で語れないものが出てくる。ここで初めて、人間のことをきちんと調べないと本当の人間のためのものができない、ということがわかるわけです。社会科学、要するに自然物を対象とした科学の領域を作るのではなく、社会という人間の営みを理解するための領域、吉川最高顧問の言う“社会”科学、「使われる」ことを念頭に置いた、物を作る構成学をやっていかなければいけないということです。 小林 最近の経験ですが、大学でエネルギーのプロジェクト計画を手伝いました。結果的にはプロジェクトは実現しなかったのですが、自動車メーカー、電池メーカー、電力ネットワーク等々の方々と議論をして、要素技術からだんだんシステム化していき、最後までのプロジェクトのイメージを割りとクリアに描くことができました。シンセシオロジーで赤松 幹之 氏
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