Vol.3 No.1 2010
51/100
研究論文:製造現場における熟練技能の抽出に関する研究(松木)−48−Synthesiology Vol.3 No.1(2010)業で獲得された技能であって、一般に高度で有用性の高いもの、という意味で本稿では使用している。この能力をもつ製造企業の従業員が熟練技能者である。したがって、熟練技能の抽出の方法とは、技能を技術に置き換えていく方法にほかならない。これを、「技能の技術化」と呼ぶことがある。本研究における技能の抽出手法とは、技能の技術化手法ともいえる。技能に関連した言葉として暗黙知がある。暗黙知を初めに提唱したマイケル・ポランニーは、自転車の運転方法に関する知のように言語化できない身体的な知の作用に関するものとして暗黙知を議論している[1]。一方、野中郁次郎氏のSECIモデルで使われる暗黙知[2]は「経験や勘に基づく知識で、言語表現が難しいもの」として暗黙知を定義している。すなわち、野中氏の暗黙知と本稿で定義した技能との違いは、動作に関する能力の取り扱いである。動作は当然、知識の影響を受けるため、その境界は明確ではないが、野中氏の暗黙知では、熟練技能者の手技を含めた議論はされていない。本研究で取り扱う技能は、ポランニー氏の暗黙知と野中氏の暗黙知を合わせたような知の能力に対応するのではないかと想定している。一方で、野中氏の形式知は技術の定義とかなりの程度重なる。したがって、動作の技能を除き、SECIモデルにおける暗黙知の形式知化と、技能の技術化は同義である。また、SECIモデルでは重要な働きを演じる集団の暗黙知を本研究では取り扱わない。ところで、ある個人の暗黙知は、それ以外の人にとっても暗黙知なのだろうか。言語表現ができない、すなわち、理由を説明できないのは、ある個人だけで、すでにどこかで研究され形式知となっている場合があるだろう。これは、本研究を行う一つの前提である。材料や製造法に関する物理的、化学的、工学的な知見は膨大であり、製造現場の従業員がそれらすべてに精通しているという仮定は妥当ではないと考えるからである。というより、すでに人類が知りえた科学的工学的な知見の一部しか、個人は理解していないと考えることは自然である。本研究の前提として、多くの暗黙知、多くの熟練技能者の技能は、すでに形式知(技術)になっていると考えている。ここで、「理解していない」という言葉に、「原理は解明されているが、企業現場の現象にそれがどのように影響しているか、という『応用問題』が解けていない」というのも含めている。数値的で表現できる調査は実施していないが、企業において世界をリードする分野を専門とする技術者は、その特定の狭い分野の形式知をかなり理解しており、零細な町工場の作業者の形式知の範囲は一般に広いとは言い難いと考えている。このような前提のため、本研究では熟練技能の抽出の手法研究において、人類がいまだ知りえていない暗黙知を解明し、その形式的な表現手法を追及することは対象外である。本来の意味での「暗黙知」を本研究では対象にしていない。2.2 技能に関する従来研究暗黙知の議論で述べたポランニー氏と野中氏の暗黙知について簡単に述べる。医学博士であり、化学博士であり、哲学者であるマイケル・ポランニーは人間の動作の中には、自転車の運転のように明示的に意識されず暗黙のうちに複雑な制御を実行する過程があり、この過程を暗黙知と呼んでいるようである。本質的に言語化できないとすると、ポランニー氏の暗黙知は形式化、技術化は不可能である。したがって、本研究では、野中氏の定義にならって「経験や勘に基づく動作で、その制御の仕組みの言語表現が難しいもの」という具合に再定義し、これを対象とする。工学的にはバイクの自動運転の制御の研究があり、自転車の運転の暗黙知の代替物としての制御機構は実現されている。このように考えると、ポランニー氏の意味での暗黙知は本研究の対象外となる。経営学者である野中氏は、経営企業における知識マネジメント、特に日本の製造業を分析するキーワードとして暗黙知を定義し、個人と集団の暗黙知と形式知が知識スパイラルとして内容を変化させ発展させるというSECIモデルを提案した。ここでSECIとは共同化(Socialization)、表出化(Externalization)、連結化(Combination)、内面化(Internalization)の頭文字である。我々が興味をもつのは暗黙知で表現されている技能の内容そのものである。新たな状況に対応して有効に作用する熟練技能の工学的な意味内容を知ることが重要である。この意味で経営学が対象とする暗黙知とは立場が異なっている。認知科学では、技能の獲得のメカニズムについて研究が行われてきた。例えば、Ericsson氏らは熟練技能獲得のために訓練の重要性を指摘している[3]。大変興味深い内容であるが、本研究では熟練技能者がどのように技能を獲得していったかについては対象外である。工学的な側面では、VR(Virtual Reality)を用いた技能継承の支援の提案[4]や、企業におけるTIG溶接の技能についてデジタル化と可視化の試み[5]などの報告がある。いずれの研究もOJT(On-the-Job Training)を補完し支援する技術の研究である。我々の立場は、前節で述べたように多くの熟練技能が形式知で表現可能ではないかと想定している。すなわち、現在までに明らかになっている形式知を使い、熟練技能を表現することが、本研究における熟練技能の抽出手法確立のための基本方針である。
元のページ