Vol.2 No.2 2009
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研究論文:PAN系炭素繊維のイノベーションモデル(中村ほか)−162−Synthesiology Vol.2 No.2(2009)能性を検討する立場から「繊維状黒鉛は将来にどのような新しい用途を約束しているか?」と自問し、結果として①耐薬品性に非常に優れているので酸・アルカリの濾過材に好適である②耐熱性が非常に良いので非酸化性高温ガスの濾過に用いられよう③耐熱性に加えて電気伝導性が良いので赤外線放射体や真空管用フィラメントなどにも用いられよう([著者注]当時、トランジスターは知られていたが、まだまだ真空管時代であった。)④合成樹脂の充填材としても使用されよう⑤黒色であるという難はあるが合成樹脂の帯電防止にも役立つであろう⑥紐状あるいは布状にしたものは電気用のリボンなどとしての使用も可能であろう⑦火焔の防断材に用いることも考えている。と自答している[7]。後にPAN系炭素繊維は機械的強度に産業応用の方向を定めたため、これらはどれ一つとして実用化されることなかったが、ここで大切なことは、研究の目的として社会に役立つ形を明確にするという発想であり基本姿勢である。進藤博士個人の興味、関心に基づいて研究テーマが設定されるのであるが、自身の研究が「社会のどこに役に立つのか」について事前に十分な吟味をしていることは注目すべきである。2.4 技術移転に係る時代背景と研究者の行動(1)時代背景PAN系炭素繊維に係る基本特許は1959年に出願された。この年は、尺貫法廃止(メートル法実施)、東海道新幹線起工式、民放テレビ開局が続いた年であり、続く1960年代に入ると、エネルギーの形態が石炭から石油へと変わり始め、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並び始めるなど高度成長期に突入した頃である。産業技術面においては、三種の神器(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)が家庭に浸透し始め、欧米の生活レベルに近づく努力が続けられた。ただし、まだこの時代の産業によって生産されるものは、すでに欧米諸国で実現されているものであったので、わが国に合った性能と価格であれば、国内販売が非常に容易であった。1960年代も後半になると、貿易自由化につれて、わが国の産業技術代の強化の必要性が強く意識されるようになり、産業界の国の研究機関に対する期待と関心は戦前以上のものとなった[11]。こうした時代の転換点に臨み、大工試も産業技術の研究開発に一層の貢献をすべく技術移転を促進するための機構改革が行われた。1967年4月、工業技術院傘下の他の5試験研究機関とともに、管理部門の機構改革が行われて、総務部および研究企画官制が施行されている。因みにPAN系炭素繊維の産業化で大きな成功を収めている東レ(株)が炭素繊維について本格的に生産を開始したのは1968年頃であり、大工試が上記機構改革を梃子にして、炭素繊維に係る技術移転を様々な企業に対して行っている頃と一致する。(2)研究者の行動こうした時代の要請で国立研究機関の役割が産業の開発力強化の支援へと明確化する中、研究者もその使命に沿った行動を重視するようになり、大工試の研究マネージメントの方針に沿ったものとなった。ただし、その行動は強く管理されたものではなく、進藤博士の研究テーマも、上司の理解の下、研究者の好奇心と使命感(国立研に期待されているもの)で設定できた感が強い。また、過度の情報が氾濫している現代と異なり、実験を行いながらも研究の内容について独自に考える時間が持てた時代であった。一方、研究成果の取り扱いについては、研究者が独自先行的に学会発表に走るのではなく、特許申請を先行させることが研究管理者によって適確に行われている。このように、PAN系炭素繊維による技術革新に係る初期段階の研究期間は、決して研究者の興味が原動力になる努力だけではなく、周囲研究者及び研究管理者、工業技術院を始めとする産業政策側の判断・意思決定と実行がうまく絡み合った効果が大きいと考えられる。2.5 産業界の動向(1)大工試と地元産業界大工試は、創立以来伝統的に地元の企業との付き合いを重んじてきた。大阪は、近世から商業が発展し、近代図2 PAN系炭素繊維開発の契機を与えた新聞記事(日刊工業新聞より転載許可)
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