Vol.2 No.2 2009
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研究論文:遺跡が語る巨大地震の過去と未来(寒川)−94−Synthesiology Vol.2 No.2(2009)おり、地震被害に関する記述も多い。1891年の濃尾地震を契機に震災予防調査会が生まれ、この活動の一つとして地震記録の収集作業が行われるようになった。現在までこの作業が継続しており[10]-[12]、最近では歴史地震研究会を中心に地震史料に関する学際的な研究も進んでいる。被害記録には地震の年月日や時刻が記載されているので、遺跡の地震痕跡と文字記録を対比することによって地震痕跡の生じた年月日がわかる。地震の痕跡が確認されると、寺社の記録や貴族の日記などの記述が裏付けられる。また、文字記録の絶対数が急減する江戸時代より前では、大きな地震が存在しても記録として残されていないことが多いので、遺跡の地震痕跡によって記録の空白が埋まる。さらに、文字記録の無い古墳時代以前では、地震痕跡の存在が地震の発見になる。このように、歴史地震の記録と対比することによって地震痕跡の年代の精度が高まる。逆に、地震痕跡の存在が、文字記録に基づいている歴史地震の信頼性を高め、記録の無い時代まで地震の歴史を遡らせることになる。5 研究成果の概要日本における遺跡発掘調査の大半が開発に伴って実施されるので、どこで、どのような地震痕跡が見つかるかは偶然に支配される。発見された痕跡に合わせて研究を進めることになるが、これまでに得られた成果[13]-[16]の中から、いくつかを紹介する。5.1 文字記録が無い時代の地震文字記録が存在しない時代の地震が明らかになった例として、琵琶湖周辺地域を取り上げる。前述のように北仰西海道遺跡で縄文時代の地震痕跡が見つかっているが、その後、琵琶湖北西部にある高島郡新しんあさひちょう旭町の湖岸から250m沖合で、滋賀県文化財保護協会が湖底遺跡(針はりえはま江浜遺跡)の発掘調査を行った。湖底を約1 m掘り下げた段階で、弥生時代中期の人たちが暮らしていた地面が見つかり、畦跡や耕作用具の他、横倒しになった柳の木々が検出された。この地面は、地下の砂層から流れ出した噴砂に覆われていたので、当時の湖岸にあった陸地が地震で水没し、その時の激しい地震動で液状化現象が発生したと考えられる。琵琶湖周辺の沖積低地では、同じ年代と考えられる液状化跡が他の多くの遺跡でも見つかっており(図4)弥生時代中頃の大地震で湖岸の一部が水没して琵琶湖周辺が激しく揺れた可能性が高い。5.2 日本書紀に書かれた地震地震という文字が最初に登場するのは『日本書紀』である。この中で、天武天皇7年条(679年)の筑紫地震に関しては、「地面が引き裂かれて、その広さが二丈(約6 m)、長さが三千余丈(約10 km)にも達し、どの村でも多くの民家が倒れた」と、被害が具体的に記述されている。しかし、『日本書紀』には歴史的事実の改ざんや中国史の模倣が多く、筑紫地震の記述についても検証が必要だった。地震考古学誕生の1988年以降、当時の筑後国府跡を含む福岡県久留米市周辺の遺跡で地震痕跡が報告されるようになったが、7世紀後半の年代に限定されており、日本書紀に書かれた筑紫地震に対応した。そして、1992年には、久留米市東方で東西にのびる水みのう縄断層帯の直上にある山川前田遺跡の調査で、この年代の断層活動の痕跡が見つかった。これらの結果、679年に水縄断層帯が活動して大地震が発生し、これが『日本書紀』に記録されたことが明らかになった。『日本書紀』に登場する684年(天武天皇13年条)の地震は「夜の十時頃に大地震があり、国中の男も女も叫び合って逃げまどった。山は崩れ、河はあふれ、諸国の郡の官舎や民家・倉庫・寺社が壊れ、多くの人や家畜が死傷した。砂層地表面噴砂8世紀7世紀彦根高島大津H琵琶湖010 km比良山地図3 液状化跡の模式図図中の黄色の部分が砂図4 琵琶湖周辺の地震痕跡赤い線が活断層(ケバを示した側が相対的に下降し、矢印は横ずれの方向を示す)緑色が中世から近世の地震痕跡を検出した遺跡、赤色が弥生時代の地震痕跡を検出した遺跡、茶色が縄文時代の地震痕跡を検出した北仰西海道遺跡、Hは針江浜遺跡
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