Vol.2 No.2 2009
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研究論文:遺跡が語る巨大地震の過去と未来(寒川)−92−Synthesiology Vol.2 No.2(2009)しての活断層が本格的に研究されている。筆者は1970年代初めから活断層を対象として、関西圏を中心に、地形·地質学的な手法を用いた研究を行った。当時は、知られている活断層も少なく、新たな活断層を認定して基本的な性質を調べる「活断層の発見と概査の時代」と言われている。1976年、活断層に関わる30余名の研究者が活断層研究会を組織した。この研究会の目的は、日本列島各地に分布する活断層について、統一基準で個々の断層の性質を調べ、全体のカタログを作成することである。筆者も、研究会の一員として、近畿・中国・四国地域を中心に調査を行った。4万分の1航空写真を活用して地形学的な見地から活断層の位置を推定し、地質調査によって断層の存在を確認する作業を行い、集成した成果が1980年に出版された[1]。1979年に通商産業省工業技術院地質調査所に入所したが、この年から『全国50万分の1活構造図』の編纂作業が始まり、調査を担当することになった。これは、日本全国を50万分の1の縮尺で15の地域に分割して、地質の概要と主要な活断層を記入したもので、地質調査所の構造図シリーズの一環として、1982年から1987年にかけて、15の地域が刊行された[2]。このような過程を経て、日本における活断層の全体像が概ね把握できるようになった。そして、研究者には、「活断層から地震が発生するメカニズムの追求」、「個々の活断層の性質をさらに詳しく探る」、「断層活動と地形形成の歴史を考える」など様々な視野から、一段階進んだ研究が求められるようになった。3 新たな研究の展開全国50分の1活構造図の編纂作業が終わりに近づいた頃、考古学の遺跡に注目することになったが、これは偶然に訪れた。筆者は、琵琶湖に関する史料を収集する目的で、1986年の春、高島郡(現・高島市)今津町役場の町史編纂室を訪ねた。この時、今津町教育委員会による北きとげにしかいどう仰西海道遺跡の発掘調査が行われており、発掘担当者と会話を交わす機会があった。そして、発掘現場に砂の詰まった奇妙な割れ目が姿を現しており、過去の大地震と関わりを持つ存在ではないかという質問を受けた。北仰西海道遺跡は縄文時代から弥生時代にかけての集団墓地として知られている。すぐに現場で確認すると、砂の詰まった幅約1 mの割れ目が真っ直ぐに延びており、地面を掘り下げて地層の断面を観察すると、地下に堆積した砂層から砂が上昇して、割れ目の内部を満たしていることがわかった。つまり、この地域が激しい地震動に見舞われて、地下の砂層で液状化現象が発生し、上を覆う地層を引き裂きながら、地面に向かって噴砂が上昇した痕跡だった。図1に示したように、縄文時代の古い墓は噴砂に引き裂かれていたが、新しい墓は逆に噴砂の上から設置されていることがわかった。引き裂かれた墓は地震より前、噴砂を覆う墓は地震より後となる。この遺跡で検出された墓は、穴を掘って遺体を埋めた土どこうぼ壙墓、甕に遺体を入れた土どきかんぼ器棺墓の2種類で、遺体と一緒に埋葬した土器や墓に使った土器棺から墓の年代がわかった。これに基づくと、地震の年代は縄文時代晩期、考古学の編年では滋しがさと賀里Ⅲa期頃で、今から3千年余り前となった[3]。考古学の遺跡発掘調査で地震痕跡が見つかり、文字記録に無い地震が把握できたことに強い興味を抱いて、他の遺跡でも地震痕跡を探すことにした。京都府埋蔵文化財調査研究センターに問い合わせると、発掘調査中だった京都府八幡市の木きづがわかしょう津川河床遺跡にも同じような痕跡があるという情報を得た。木津川河床遺跡では大規模な液状化現象が発生しており、幅1m前後の割れ目(砂脈)が地面を引き裂いて縦横に走っていた(図2)。ここから流れ出した噴砂は、南北朝や室町時代の地層を引き裂き、江戸時代の地層に覆われていたので、16世紀末頃の地震痕跡であるとわかった。実は、1596年9月5日 (文禄5年・慶長元年閏7月13日)に発生して京都などに甚大な被害を与えた慶長伏見地震に01 m12345トレンチ図2 木津川河床遺跡の液状化跡斜め方向に真っ直ぐのびる白い帯が砂脈(京都府埋蔵文化財調査研究センター発掘、寒川撮影)図1 北仰西海道遺跡で検出された地震の痕跡(文献[3]に加筆)1. 現代の杭跡 2. 土壙墓 3. 土器棺墓 4. 弥生時代の溝跡 5. 砂脈トレンチと表記した箇所を掘削して液状化跡であることがわかった。
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