Vol.1 No.3 2008
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−234 Synthesiology Vol.1 No.3(2008)総説:個の「知」から全の「知」へになり、研究成果の使われ方が読者から見て十分納得できるものかどうかという観点で論文を読むのです。読者から見て一体何が大事なのかを考えながら査読者は意見を著者に返し、著者との意見交換を通じて分野外の人でも読めるストーリーのしっかりした論文がまとまります。さて、従来の研究者というのは、正しく分析し、正しい方法論で確実に結論を出していく、いわば厳密に科学的な方法論を適用して真理を見出す能力がある人だと思うのですが、それに対して、社会に科学的な知見を役立てるという観点からシンセシオロジーの論文を書ける人は、科学的な発見を社会にどのように持って行くと社会に役に立つかを意識して研究のできる人間となります。社会に役に立つためには何をしなければいけないかを強く意識する、指向性がはっきりしている人ですし、かつ、全体を見渡して、この成果に加えるためあと何をしなければいけないか、そういう研究を進めるパースペクティブな能力を持つ研究者がシンセシオロジーに論文を書けると思います。このように考えますと、シンセシオロジーを、研究能力の1つとしての研究に対するパースペクティブ能力をアピールする場にも使っていただきたいと思います。それは大学の先生でも、企業の方でもいいです。企業では、自分の研究所の人間がこういう論文を書けるということは、その人が成果をいかにして次の研究につなげていけるかを考えられる、そういう能力を持っている研究者だと上司の方がわかっていただけるとか、そういった使い方も非常に大事なことではないか。これまで持っていた研究者に対する評価軸とは違う軸で研究者を評価するということにシンセシオロジー使っていただけないだろうかと思います。 吉川 弘之 産総研理事長【総括・閉会挨拶】研究の、あるいは研究者としての“悪夢”とは何なのかを考えると、方法論がなかなか見えてこないという状況に遭遇していることです。こういう状況は工学系の人たちは皆経験していることですが、現代という時代そのものが方法論の見えない状況にあるような気がしています。なぜかというと、今、環境の時代が来たと言うものの、環境問題は、昔から指摘され、警告されてきているのです。ただし、発見があり、事実が解明され、警告があっても、どう行動すべきかはまだわかっていません。問題を解決する方法が分からないという状況が社会全体として起こってしまっているということです。普通、温暖化がわかればそれを停止する方法があるというのが調和的な構造ですが、そうならないところに科学の1つの不十分性、科学の考え方の限界があります。人間と自然との関係はどうなのかを扱う自然観という言葉があるように、人工物とはいったい何なのかを総体として考える人工物観がなければなりません。人間が人工物を作ってきたことによって今の状況があるのですから。私たちがぶつかる思考過程とか研究過程の“悪夢”が社会現象にまでなってくると、それをやはり一人ひとりの行動に立ち返って考えてみる必要があります。どうすればいいのか、今日のディスカッションで面白かったのは「手離れの悪い研究」という表現です。研究成果を世の中に出してみると、それが1つの新しい研究テーマになって、後はもう知りませんとは言えなくなります。そこにはやはり循環という経路があり、研究が研究論文として出て行くだけではなく、その結果がどうなったかという世の中から再び返ってくることを見届けるという基本的な態度が必要です。したがって、大きな社会的な仕組みの中では、ある人工物が社会で使われ、その結果がどうなったかを観察し、ある種の価値判断を下して次に何を提案していくか決めなければなりません。さて、このような様々な背景のあることを基にして「シンセシオロジー」を見てみますと、人間の行為、研究者の行為が社会の利益や価値とどう結びついているか、そういう第2種基礎研究の過程を可視化するための雑誌だと位置づけられます。その書き方はまだ確定していませんが、執筆者と査読者の議論を通じて両者が対話するという“進化”の構造を持っています。これは明らかに1つの情報の循環であり、ループを実現する1つの手段だと言えます。「シンセシオロジー」は1つの雑誌にすぎませんが、科学のあり方、あるいは研究と社会との関係ということについて一石を投じる意味があることを、ぜひご理解いただきたいと思います。(65)−
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