Vol.1 No.2 2008
77/92
−155 Synthesiology Vol.1 No.2(2008)座談会:新しい形式の論文を査読してうだったか、総合的に方向性はどうだったかというところですが、それらについてはいかがでしょうか。湯元 第1号のとき、3回以上意見交換をして、さらに小野さんや小林さんの修正を経て出てきた中でわかってきたことですが、専門分野の人間としてはあまりオリジナリティがないようにも思った部分が、案外とほかの分野の方には構成学として意義があるのだなと思いました。構成学ということを自分自身で捉え切れていない部分があったために、最初は第1種基礎研究的な内容を期待したところがありました。査読者としても、構成学が何なのか、これで構成学の要件が本当に満たされているのかというところを考えるのは、まだ遠い道のりだという感じはします。しかし、一歩は近づいていると思います。五十嵐 私は2報査読しましたが、1つに関していうと、分野が近いこともあって、あまり構成学的な意味合いを頭に描かないで読めてしまった。そこはもう少し構成学的なところを考えなければいけなかったかなという反省があります。もう1報は、内容というより、ジャーナルの趣旨に即してあるいはアピール性を高めるために構成的にこうしたほうがいいのではないかということを非常に強く査読者として印象づけられて、そこはかなり「こうしたらいかがでしょう」というところを返したところです。査読者もそうだし、著者も、読者も、回を重ねることによって構成学的な意識がより強くなっていくだろうなという印象は受けました。小野 オリジナリティがどこにあるかということは難しいと思いますし、私も悩んでいるのですが、非常に有り体にいえば、「書いておもしろかった」と著者が言う、「読んでおもしろかった」と読者が言う。もう1つ、著者座談会でも話が出たんですが、「ほかの人でも情報を集めればこの論文が書けたか」という問いに対して、著者全員が「これは自分でないと書けない」と自信を持って、皆さん、言ったんですね。それが一番根底にあるオリジナリティなのかなと。その人でないと書けないもので、しかも書いておもしろい、読んでおもしろい。あと、何が要るんだと(笑)、居直って申しわけないですが。 しかし、それではあまりに暴論なので、では、解説とどう違うのか。解説では書き切れないということは何人かの著者が言っているし、私が解説を書くとしても、こうは書かないだろう。それから、大きい企業が出す『技報』がありますが、『技報』は新製品の特徴を科学技術の言葉で語っているが、ある意味、それ以上のものでない。その背景にある考え方や失敗作とか、ほかの選択肢については普通書かない。そこは企業のパワーの源泉なので、出すとヤバイわけです。そこをこの『シンセシオロジー』では実はぶちまけている。ぶちまけて、本当に研究者としてのパワーの源泉を失わないですか、というところが心配になるんですが、ただ、それをぶちまけあう社会が、私はいい社会じゃないかと思っているんです。第1種基礎研究の場合も17世紀に科学が芽生えて、学会ができてきたというのも、第1種基礎研究の成果を個人で秘匿しないで、学会員みんなで共有することから始まっているわけです。研究者がノウハウとかシナリオをぶちまけることで損をしたと思うのではなく、社会に大きな影響を与えたという名誉がしっかり与えられていく。この人にこういうオリジナリティがあったのだということを称賛するというんでしょうか、そういうふうになると、現在よりもう一段、科学技術の進歩がステップアップしていくのではないか。企業にいる技術者や研究者も企業の枠内だけで限定される存在ではないでしょうし、我々と同じように科学技術を進歩させるという志もあるでしょう。『シンセシオロジー』に企業の人が書いてくれるのはなかなか難しいだろうなと思いつつ、そこを乗り越えてくれないかなという夢を持っているんです。持丸 『シンセシオロジー』の論文は、物語やストーリーをどうやって構成したのか、どうして選択したのかという「学」を書くことが基本的なところで、私もそれに苦労したんですが、著者の匂いがするような論文が書けていると思います。これは、これから先も意識して守っていかなければならないですし、構成学をアーカイブしていくわけですから、どうやって選択したのか、どうやって構成したかを書くことは大切です。皆さんが書いたのを読ませていただきましたが、抽象化レベルまではまだいっていないですが、オリジナリティもあるし、出だしとしてはうまくいっていると思います。小野 晃 氏(74)−
元のページ