麹菌のゲノム塩基配列の特徴
われわれは、本格的な麹菌のゲノム解析が開始される以前の予備的な解析から、麹菌には特に解析のむずかしい高度な繰返し配列などは見られず、GC(グアニン、シトシン)含量も50%を若干下回る程度で、ゲノム解析が行いやすい微生物と考えていた。しかし、実際にゲノム解析を進めていくと、コンティグの末端がAT含量の高い配列の存在1)で読めなくなることが頻繁に発生し、gap領域をPCR法で増やすことすらできない場合も多数あった。
製品評価技術基盤機構ではこの状況を克服するために、AT含量の高いDNA断片を増幅するためのPCR条件の検討など、非常に手間のかかる作業が丹念に行われた。この結果、ほとんどのgapを埋めることに成功し、残された領域のほとんどは、他の糸状菌でも解析が困難なセントロメア領域だけとなった。特筆すべきことは、遺伝子地図、制限酵素地図の両方が存在しない状態でゲノム解析を行ったにもかかわらず、約38Mbのゲノム全体にわたって1ヶ所の矛盾も無かったことである。
麹菌の遺伝子の特徴と麹菌の性質
麹菌のイントロン(挿入配列)の長さは高等動植物に比較して短く比較的一定していたことから、当初は麹菌の遺伝子の予測は比較的容易に達成できると考えていたが、実際には正確な予想は困難な遺伝子がかなり存在した。現在公開されている他の糸状菌のゲノム解析での遺伝子予測でも同様であるが、これは、糸状菌の遺伝子数が微生物で最大級であり、かなりの遺伝子の情報が少ないということが原因かもしれない。麹菌の遺伝子予測では、SIM42)によるESTとのアラインメント、ALN3)による相同遺伝子とのアラインメント、GeneDecoder4)によるab initioの予測、Glimer M5)によるab initioの予測など(ALNとGeneDecoderは産総研生命情報科学研究センターが開発)、それぞれの特徴を生かした予測と評価が行われており1)、これまでに解析された糸状菌ゲノムの中で、遺伝子の予測に関しても最高クラスの精度であると考えている。
麹菌のゲノムサイズは、同じAspergillus属に属するAspergillus fumigatusやAspergillus nidulansと比較して30%程度大きい約38Mbからなるが、遺伝子数についてもA. fumigatusとA. nidulansが9,000〜10,000程度であるのに対し、麹菌は約12,000強とゲノムサイズの増加にほぼ比例した遺伝子数が予測された。この約3,000の増加分は、タンパク質分解酵素などの加水分解酵素や、アミノ酸の代謝系や二次代謝系の遺伝子などによるもので、加水分解酵素やアミノ酸代謝系遺伝子の数が多いことは、麹菌が食品の発酵産業に利用されてきたことを合理的に説明できる。一方、二次代謝系の遺伝子が増大していることは、麹菌の祖先が植物に対する感染性を持っていた可能性を示唆している。また、major facilitator superfamily transporter遺伝子の数が多く、麹菌の高い薬剤耐性を説明できる1)。
麹菌のゲノム構造の特徴
麹菌のゲノムとA. fumigatusとA. nidulansのゲノムとの遺伝的相同性を比較すると、麹菌のゲノムには、A. fumigatusやA. nidulansのゲノムと共通の領域と麹菌に特有の領域がモザイク状に存在することがわかった。前項の麹菌に特有の遺伝子の多くは、この麹菌に特有の領域に集まっていた。また、EST解析の結果と合わせて解析した結果、麹菌に特有な領域の遺伝子の発現は、共通領域の遺伝子と比較して明らかに低いことが分かった。このことは、麹菌が持つ二次代謝系遺伝子は発現が抑えられていることを意味しており、麹菌が高い安全性を有していることを支持する結果である1)。また、麹菌特有の領域には、原核生物であるAgrobacterium tumefaciensと相同性が非常に高く、他の真核生物からは見つかっていない遺伝子が存在していた。このことから、麹菌は原核生物から遺伝子を獲得した可能性が考えられる。
麹菌のゲノムサイズがA. fumigatusとA. nidulansの2種に比較して約30%も大きいことは非常に興味深い。麹菌のゲノム上で遺伝的相同性を持つ領域が、A. fumigatusとA. nidulansの2種のゲノムに対して共通であることから、A. fumigatusとA. nidulansのゲノムは似た構造を有し、麹菌だけが特異的な領域をモザイク状に持っていることになる。一方、系統学的な解析から、麹菌とA. fumigatusの分岐はA. nidulansとの分岐の後であることが示されている6)。これらのことから、3種の共通の祖先はA. fumigatusやA. nidulansと同様のゲノムサイズを有し、A. nidulansとA. fumigatusが分岐した後に、麹菌が他の生物種から遺伝子を獲得した可能性が高いと考えられる1)。
麹菌ゲノム情報の産業利用に向けて
麹菌の機能をより高度に使いこなしていくために、遺伝子の発現を網羅的に調べることは重要である。そこで、麹菌のゲノム塩基配列を利用して、麹菌の全遺伝子に対するプローブを搭載するDNAマイクロアレイを作製し、様々な条件による麹菌遺伝子の発現の変化を網羅的に解析した(図5)。DNAマイクロアレイによる解析は、麹菌の場合においても代謝経路のモニターに有効と確認されており7)、多数のDNAマイクロアレイによる解析は、麹菌の研究のために有用な情報基盤を提供すると期待される。
また、国内の研究機関で麹菌のプロテオームの解析も行われており、麹菌のゲノム塩基配列を基盤としたゲノム科学研究が進みつつある。最近、Neurospora crassaで非相同組換えに関する遺伝子が発見され、これを破壊すると相同組換えの効率が向上することが見いだされた。麹菌は多核であり、また、非相同組換え効率が高いことから、これまでは遺伝子の破壊は非常に困難であった。しかし、N. crassaと同様の方法が他のAspergillus属でも可能であることが見いだされ、現在では麹菌でも比較的容易に遺伝子の破壊ができるようになり、出芽酵母などと同様に、網羅的な遺伝子破壊による遺伝子機能の解析が可能になりつつある。
このように、麹菌のゲノム情報基盤は整備されつつあり、麹菌の遺伝子や機能を産業に利用していくための基盤技術が整ってきた。しかし、ゲノム科学の産業利用には、高度な情報科学やゲノム科学と密着した生物学的ノウハウが必要である。そこで、産総研、東北大学、金沢工業大学が培ってきた麹菌のゲノム科学の産業利用に関する知的財産を技術移転して、麹菌のゲノム情報に基づいた技術を実用化するための産総研ベンチャー(株式会社ファームラボ)が立ち上がった。ゲノム情報から生まれた技術を発酵産業に使いこなすことは容易ではないかもしれないが、このベンチャー企業が一つの試金石として麹菌ゲノム科学に基づいた産業の発展に貢献することを期待したい。