はじめに
タンパク質の翻訳後修飾の中で糖鎖修飾は最も重要であるが、その構造や合成系の複雑さゆえに、研究対象として敬遠されがちである。生体内のタンパク質、脂質の多くに糖鎖が付加されており、それぞれ糖タンパク質、糖脂質と呼ばれる。糖鎖の付加によりタンパク質は最終的に生理機能を獲得する。1980年代後半に勃興したゲノム世代は、21世紀初頭にヒトゲノムの全解読を完遂した。DNAシークエンサー、シンセサイザー、マイクロアレイなどの技術が飛躍的に革新された結果、予想よりも早く終結した。PCR技術はきわめて大きな発見であった。その後、タンパク質を網羅的に解析しようとするプロテオーム世代が始まり、現在、ピークに達しようとしている。質量分析計の革新的な開発が現在も進んでおり、それによるアミノ酸配列のハイスループットな解読が可能になったからである。ゲノム解読の結果、整備されたデータベースが、質量分析計による部分的アミノ酸配列同定からタンパク質を特定することを可能としている。しかし、リン酸化や糖鎖付加などタンパク質の機能を制御する翻訳後修飾に関しては、まだそれをハイスループットに解析する技術が存在しておらず、現時点で最重要な開発課題と思える。現在は、ポストゲノムではなくあえてポストプロテオーム世代と呼びたい。その中でも、最もチャレンジングな課題が、糖鎖の付加された糖タンパク質を丸ごと解析するグライコプロテオームであろう。
糖鎖遺伝子
生体内での糖鎖合成に関わる遺伝子群を総称して、糖鎖遺伝子と命名した。5年前に発足した研究チーム名に、我々のこの創作語を冠した。この5年間弱の研究戦略は以下の通りである。図1に、その流れを示してある。1)H13〜15年のNEDO糖鎖遺伝子プロジェクト(GG-PJ)において、ヒトゲノム配列やcDNA 配列のデータベースの中から、バイオインフォマティクス技術を駆使して、糖鎖遺伝子を網羅的に探し出す。それらをすべてクローニングして、遺伝子をさまざまな発現系を用いてリコンビナント酵素とする。それら糖転移酵素の in vitro での糖鎖合成活性を解析する。H16の3月の時点で、糖鎖遺伝子ライブラリすなわち糖転移酵素ライブラリがほとんど完成した(図2)。2)H15〜17年のNEDO糖鎖エンジニアリングプロジェクト(SG−PJ)により行われた。SGプロジェクトはH18の2月に終了する。各酵素の合成する糖鎖構造が判明した後、種々の酵素を組み合わせることにより、さまざまな構造の糖鎖、あるいは糖ペプチドを、自由自在に合成できるようになった。最近になって簡便な合成ロボットを作製した(図1)。3)基質特異性のはっきりとした糖転移酵素ライブラリを使用して糖鎖を合成するので、合成された糖鎖の構造も明確である。この構造の明確な糖鎖および糖ペプチドライブラリを構造解析のための標準品として供することができる。後述するタンデム質量分析法により、各種の糖鎖構造のMSnのデータベースを構築する。このデータベースが、「微量なサンプルで、迅速に、だれでも糖鎖構造を解析できる」ための基盤ツールとなる。
我々は、世界に先駆けてヒトの糖鎖遺伝子を網羅的にクローニングし、現時点で、168種類の酵素が活性型酵素として発現可能となっている(図2)。これらの糖鎖遺伝子は、Gateway システムのエントリーベクターにクローンしてあるので、だれでも容易に2日間ほどで、動物細胞、昆虫細胞、酵母などで発現してリコンビナント酵素を得ることができる(図2)。ヒト由来の酵素であるので、すべての酵素は動物細胞で活性型として発現できるが、酵素の種類によっては昆虫や酵母などの下等生物では活性型として発現できないものがある。我々の手元に、まだ活性型酵素として活性を検出できない候補遺伝子が45種類あり、これらは既存の基質では活性を容易に検出できない。その原因はいくつか考えられるが、2種類以上のタンパク質の共発現を必要とする可能性もある。
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図1 「糖鎖」研究3 大ツール(糖鎖遺伝子、糖鎖ライブラリ合成ロボット、糖鎖微量迅速解析システム)の開発
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網羅的にクローニングされた糖鎖遺伝子リソースを活用して、糖鎖ライブラリ、糖鎖タンデム質量分析スペクトルデータベースが構築された。
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図2 糖鎖遺伝子から組み替え糖転移酵素へ
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糖転移酵素は、生体内では膜タンパク質としてゴルジ装置に留まる。膜貫通部位を取り除き分泌シグナルを組み込んで発現させることにより、利用しやすい分泌型糖転移酵素を得る。括弧内の数字は、GGプロジェクトでクローニングし解析、そして論文として報告した糖鎖遺伝子の数。
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糖鎖ライブラリ合成ロボット
糖鎖は、構成分子が一直線に並んでいる核酸や蛋白質とは異なり、枝分れ構造や立体異性の違いに基づく複雑な構造をしている。そのため有機合成で糖鎖を作る場合、位置選択性や立体選択性の制御が必須となり1種類作るだけでも通常は半年から1年かかる。それに対し、糖転移酵素は完全な位置および立体選択性を示し、用いる酵素の種類によって生成する糖鎖の構造が決まっている。したがって、糖転移酵素を用いた糖鎖合成では、選択性制御のために面倒な保護基の脱着などをする必要がなく短時間で簡便に糖鎖を合成できるという特長がある。糖転移酵素による糖鎖合成は、まさにポストプロテオーム世代の糖鎖合成法といえる。
多種類の糖鎖を一度に短時間で合成するためにエンザイムキュー合成法と呼ぶ糖鎖ライブラリ合成法を考案した(図3)。反応を途中段階で停止させると、試験管の中には原料と反応生成物が存在する。そのまま次の糖転移酵素反応を行ない再度、途中段階で停止させると、もとの反応の未反応物と生成物、そして、それぞれに新たな糖が結合したものとの、計4種類の混合物となる。このように、各反応を途中段階で停止させ、複数の糖転移酵素を連続的に反応させることにより、一つの試験管内で多種類の糖鎖を一度に合成することができる。反応をn回繰り返すと理論上は2のn乗の混合物が得られることになる。また、得られる糖鎖ライブラリの各産物の分子量がすべて異なるように合成用酵素を選択しておけば、分子量と糖鎖構造は1対1に対応させることができるため、分子量を測定するだけでライブラリに含まれている糖鎖構造を知ることができる。このようなライブラリを分子量タグライブラリと呼んでいる。
今回、開発された糖鎖ライブラリ自動合成ロボットは、分注システムと反応槽、反応停止槽、簡易精製ユニット、およびこれらの制御装置からなり、エンザイムキュー合成法を活用して数十種類の糖鎖からなる混合物(ライブラリ)を2日間で合成することできる。有害な有機溶剤などを使わないので環境にもやさしい。合成された糖鎖ライブラリは、糖鎖質量分析スペクトルデータベースの構築に構造既知の糖鎖標準品として利用できるだけでなく、レクチンなどの糖鎖認識分子の特異性解析などにも利用できる。ウイルスは種特異的、組織特異的なレセプターを介して感染を開始するが、レセプター分子には糖鎖が重要な役割を演じているものが多い。インフルエンザウイルスもその一つである。しかし糖鎖とウイルス粒子の結合を網羅的にスクリーニングし、迅速に同定する手法が確立されてこなかった。この糖鎖ライブラリを活用すれば、感染に関与する糖鎖のスクリーニングも簡便に行なうことが可能となるはずである。
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図3 エンザイムキュー合成法
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各反応を途中段階で停止させ、複数の糖転移酵素を連続的に反応させることにより一つの試験管内に多種類の糖鎖を合成する。
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糖鎖微量迅速解析システム
さらに糖鎖工学研究センターでは、株式会社 島津製作所(以下、「島津」という)、三井情報開発株式会社(以下、「MKI」という)と共同で質量分析スペクトルデータベースを用いた糖鎖微量迅速解析システムを開発した。糖鎖は構造の複雑さゆえに分析も難を極め、単純な配列解析では構造を明らかにできない。従来、糖鎖の構造解析は、特別な技術を持った専門家によって複数の分析法を組み合わせておこなわれてきた。この現実が、糖鎖研究の進歩を遅らせてきた大きな要因であると考えた我々は、誰でも簡単に微量の試料で分析できる迅速解析システムの開発を目指した。
近年、長足の進歩を遂げた質量分析計(MS)は、現在のプロテオミクスの隆盛を支え、微量、簡便、高スループットという特長は、糖鎖構造解析にとっても極めて魅力的である。本来、MSは文字通り質量を分析する装置であって、数多くの異性体を見分ける必要がある糖鎖構造解析には向いていないが、タンデム質量分析(MS/MS)で得られるスペクトルパターンは、糖鎖構造の微妙な違いで変化することが次々に報告されてきている。特に、多段階のタンデム質量分析(MSn)を行なうと、ほとんどの糖鎖はそれぞれ独自のスペクトルパターンを示すことが判ってきた(図4)。MSnとは、MS/MSを発展させ、前駆イオンの選択と前駆イオンから生成するイオンの分離をn回繰り返す分析法であり、通常は四重極イオントラップ型またはイオンサイクロトロン共鳴型の装置を用いる。
我々は、糖鎖の多段階タンデム質量分析スペクトルを指紋照合の原理で構造解析に応用することを考え、上に述べた酵素合成によって得られる糖鎖を含む様々な糖鎖のスペクトルパターンをデータベース化してきた。スペクトルは、マトリクス支援レーザ脱離イオン化四重極イオントラップ飛行時間型質量分析装置(MALDI−QIT−TOF MS;AXIMA−QIT, Shimadzu)を用いて測定した。MKIはデータベースの中から類似するスペクトルパターンを持つ糖鎖を探し出す情報処理システムを開発した。島津はその情報処理システムとMSをインターネットによって連携させるためのソフトウェアを開発した。初段の断片化段階では一つの糖鎖からいくつかの断片イオンが生成する。構造に特徴的な断片化パターンを示すのは、その内の一部であるため、迅速に分析するためには、2段階目以降の断片化に供する断片イオンを適切に選択する必要がある。そこで、構造解析に重要な情報を与えるであろう断片イオンを自動的に選択させるシステムを開発し、インテリジェント測定法と名づけた(図5)。これらを統合することにより開発された糖鎖微量迅速解析システムを用いると、2回のタンデムMSスペクトル測定によって、結合位置や分枝構造はもちろん、グリコシドのα、βやジアステレオマーの区別(例えばGalとMan、GlcNAcとGalNAcの区別)まで含めた精密な糖鎖構造が判別可能である。このシステムの特長は、誰でも簡単に測定できるMALDI 型質量分析計を用いている点、糖鎖の質量分析の専門家でなくても、フラグメントイオンの詳細な帰属を行うことなく、わずか1ナノグラムの試料から数分で複雑な糖鎖構造を解析できる点にある。
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図4 類似した構造を持つ糖鎖の多段階タンデム質量分析スペクトル例
MS/MSでは殆ど同じスペクトルが得られるが、MS3では断片化パターンが明らかに異なっている。
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図5 インテリジェント測定法
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MS/MSで生じる多くのフラグメントイオンの中から、構造特定のために最も重要なMS3スペクトルを与えるフラグメントイオンをコンピューターが示唆する。
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今後の展開
ゲノム、プロテオーム研究者にとり、糖鎖研究はいかにもハードルが高い。今でもまだ多くの研究者が敬遠している。ここで開発した3大ツールは、だれでも簡単に糖鎖研究に踏み込むための基盤となるはずである。糖鎖研究のブームが起こり始めている。国内外の学会でも糖鎖関係の演題数が急速に多くなってきた。
3大ツールを最大限に活用して、いち早く次の課題、「糖鎖機能の解明」に挑戦しなければならない。癌、免疫、発生生殖、再生医療、腎臓病、感染症など糖鎖が関係すると予想される疾患は数多くある。糖尿病にも深く関わっていることが最新号の科学雑誌 Cellに掲載された。3大ツールを実際の生体試料に適用するには、まだ開発すべき課題が残されている。1)生体試料からの糖鎖・糖ペプチドの分離精製法の改良・簡便化、2)疾患と関連した糖鎖バイオマーカの探索、3)それを認識するプローブの開発、などが次の課題となる。糖鎖遺伝子ノックアウトマウスによる疾患原因の解明も課題の一つである。また最終的に、糖鎖バイオマーカが創薬のターゲットとなる可能性も考えられる。
◆ 本研究開発の成果は、独立行政法人 新エネルギー・産業技術総合開 発機構(NEDO)の「糖鎖関連遺伝子ライブラリー構築(GG)プロジェクト」および「糖鎖エンジニアリング(SG)プロジェクト」により得られたものである。
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