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通史:電子技術総合研究所100年史の概要

1.はじめに
2.黎明期
3.独立官制
4.純粋研究所への指向
5.基礎的,先導的研究への指向
6.さらなる飛躍を求めて
7.最後に


1.はじめに

 当所は,誕生以来,幾多の組織的変遷,そして社会的役割の変化を経て現在に至っている.その100有余年の歴史をここに概観し,本書に収録された資料,論文などの理解に資するものとしたい.なお,文中の史実は,本書の年表および組織変遷図を参考にした.

文頭 100年史年表 100年の軌跡


2.黎明期

 当所の官制上の始まりは,明治24年(1891)8月16日逓信省電務局に設置された電気試験所である.所員は30数名であった.

 しかし,その前身に「碍子試験場(碍子試験所)」があったとする回顧談その他の記録がある.明治2年(1869),東京,横浜間に電信線が開通し,わが国初の公衆電報業務が開始された.このシステム一式はイギリスから輸入され,建設も管理運営もイギリス人技師を中心に行われた.その助手役を努めた数人の日本人が,イギリス製のあまり性能の良くない碍子に変わって有田焼の磁器製の碍子を用いることをはじめた.いわゆる碍子試験場は,この製品のテストをする場として設けられたようである.しかし,公式の組織としての存在を正確に裏付ける資料は発見されておらず,単に政府機関の一業務を遂行する少人数のグループがあった程度であろうと思われる.この問題の考証については本書に納められた杉藤論文(1)に詳しいので,参照されたい.

 このような試験場を母胎として,電気試験所は,逓信省電務局のもと通信課,工務課と並んで設置され,電気試験,電気事業監督,研究ならびに試験に要する機器類の修繕及び新調,電報送受の正否及び電報料収納の当否調査,等を所掌とする事となった.このように,発足時には研究業務の比重はきわめて低く,現業業務を多く抱えていた.とくに電力分野においては,明治36年(1903)になってはじめて所掌の内に電力の学術的研究及び応用に関する事項が追加されたのである.

 しかし,電気試験所は創立直後より研究開発において欧米にほとんど比肩しうる成果を上げていた.特に無線通信技術に関しては,明治の末には世界的な水準に達していたといえよう.明治28年(1895)のマルコーニの無線電信実験の成功がその翌年にわが国に伝えられると,ただちに実験が進められ,その翌々年(明治30年)に松代松之助によって成功した.この技術は松代自身が海軍の無線電信実用化プロジェクトに参加することによって,海軍に技術移転され,明治38年(1905),日露戦争における日本海海戦での戦勝をもたらした技術としてひろく知られるものとなった.

 明治時代の末には電気試験所における鉱石検波器の水準は極めて高いものとなり,明治42年(1909),鳥潟右一による鉱石検波器の発明をはじめ,大正元年(1912)に発明されたTYK式無線機は世界的水準を超える性能を持つに至った.また,世界初とされる無線電話もこのころ開発されている.しかし,1904年のフレミングによる2極真空管の発明以来,徐々に世界の主流になり始めた真空管技術への取り組みは遅れることになり,大正5年(1916)より開始されたと記録されている.

 明治42年(1909)には,試験,研究所体制が整備された.すなわち,第一部は標準,検定を,第二部は電信,電話,材料分野の試験研究を,第三部は電力の試験研究を主として司り,各部に担当の係がもうけられた.また,大正3年(1914)2月には大阪出張所が新設された.現在の大阪ライフエレクトロニクス研究センター(大阪支所)の前身である.以降,各地に出張所が誕生した.

文頭 100年史年表 100年の軌跡


3.独立官制

 一般電気事業の発展とともに,電気試験所の業務が拡大し,ついに大正7年(1918)には勅令をもって独立官制として逓信大臣直轄の組織となった.明治24年(1891)の創立時には電務局直属として発足したものの,その翌翌年には通信局工務課に属するものとされ,さらに通信局,電気局など次々と所属を変えられてきたそれまでの扱いに比べると,破格の位置づけが与えられたと言っていいであろう.ちなみにこのときの所長(2代目)利根川守三郎はノーベル賞受賞者利根川進の祖父にあたる.

 明治末期から独立官制にいたる電気試験所の状況を示すものとして,第5代所長の密田良太郎によって収録された膨大な資料が存在する.いわゆる「密田資料」と呼ばれるものである.これについては本書の松本論文(2)を参照されたい.

 以降,予算,人員ともに急速に増大し続け,大正12年(1923)当時,所員数は850名に達していた.しかし,この年の関東大震災により本部の大部分が消失し,貴重な設備,資料が灰燼に帰した.昭和5年(1930),のちに本部になる永田町分室が設置された.

 独立官制から昭和初期にかけては,当初の第一期黄金時代とでも呼べる時代であった.この時期には次々と重要な新技術が誕生し,技術開発に対する社会の期待が高まり,当所の予算も人員も急上昇した.また,当所の研究活動もその期待に応えつつあったと言えよう.

 大正14年(1925)は日本ではじめてラジオ放送が開始された年であるが,同時に,このころより各国でテレビ実験が進められている.電気試験所がテレビの研究をはじめたのは昭和2年(1927)である.こうして,現在の通信技術は(自動交換機も含めて)ほとんどがこの時期に開発されたことになる.現在の通信技術でこの当時にないものと言えば,コンピュータ技術くらいのものであろう.

 昭和10年(1935)には電気試験所ではテレビ電話の実験研究に一区切りを付けている.また,昭和12年(1937)にはガラス管を導管とする光通信の研究さえ行っている.高速通信として,1200ボーの実験が行われ,漢字の伝送に使われたという記録もある.これらは,実用水準で見るならば現代の技術と比べようがないが,発想においてはほとんど変わりがないであろう.

 電力分野においては,大正6年(1917)の密田良太郎の水銀避電器の開発,大正15年(1926)の別宮貞俊の対称座標法の進展,昭和9年(1934)の後藤以紀の送電線の不減衰振動論の展開,昭和13年(1938)の前川幸一郎の万能消弧線輪の発明等顕著な成果を挙げた.また電力部(第三部)においては実験設備として,模擬送電線,衝撃高電圧発生装置,衝撃大電流発生装置等を有し,人材面,設備において世界的水準の電力技術研究機関となった.

 昭和13年(1938),超高圧送電予算が成立したので,超高圧送電線におけるコロナ問題の研究の為,1kmの超高圧試験送電線を田無分室に建設し,更にその他の研究設備を田無分室に結集し,我が国における超高圧送電研究の中心となり,戦前,戦時中を通じて研究を推進した.

 太平洋戦争が勃発した昭和16年(1941)に創立50周年を迎えた.当時の組織は,研究6部,3課,6出張所(大阪,福岡,福島,名古屋,広島,平磯)であり,所員は2,060名に達していた.しかし,記念行事での堀岡正家所長の挨拶に「今日でも電気試験所の仕事の3分の2は,試験と言うことで予算が認められているのでありまして,私どもはやむを得ず試験という名目の下に研究をやっている状態であります.ここにもわが国がなお研究に対しまして,認識が足りないと言うことを如実に暴露している次第であります」と苦情が述べられているように,一般行政からの要請はなおも現業的業務に強く傾斜していたようである.

 戦争の末期には大部分の業務は地方に分散して疎開することを余儀なくされた.

 第二次世界大戦中に,欧米においてはすさまじい勢いで新技術が開発されたが,わが国においては災禍に巻き込まれることが多く,めざましい技術開発はあまりみられない.また,技術情報に関しても鎖国状態にあった.そのなかにあって,昭和19年(1944),当所の小川建男,和久茂によるチタン酸バリウムの発見は特記されるべき成果である.この材料は高誘電率を持つことで数多くの応用を持っている.欧米でもほとんど同時期に発見されたが,小川らの研究はそれちと全く独立に行われており,その意味で小川らは世界初の栄誉を担うグループのひとつと言って良いであろう.

文頭 100年史年表 100年の軌跡


4.純粋研究所への指向

 昭和22年(1947)12月,国際電気通信株式会社が解散し,その研究陣が電気試験所第二通信部として統合され,さらにその翌年6月,文部省電波物理研究所も電気試験所に統合された.同年,連合軍司令部(GHQ)の勧告により電力部門と電気通信部門とが分割され,前者は,発足したばかりの商工省の工業技術庁に移管され,商工省工業技術庁電気試験所となり,「電気試験所」の名称を引き継いだ.後者は,逓信省電気通信研究所として発足した.これが現在のNTTの研究開発本部の出発点となるものである.昭和22,23年はいくつかの外部組織が合体され,その直後に半数が分離されるという組織の激変の時代であった.所員数の変遷を示す図1に見られる昭和23年(1948)前後の特異的な増減はこの事例による.

図1 職員数の推移

 工業技術庁に移管された電気試験所は主として強電分野に関する試験研究,検定等の業務を担当することになったが,まもなく,昭和27年(1952)には物理部を新設し,基礎部門の充実を図った.この年,先に分離した電気通信研究所が日本電信電話公社の研究所となったため,政府機関における電気通信分野の試験研究はふたたび電気試験所が担うことになった.このような背景の下に,当時世界的に隆盛の兆しを見せてきたエレクトロニクスの重要性を察知し,昭和29年(1954)には電子部を新設し,以降,電子技術振興の中核的役割を演じるようになる.かくして,わが国におけるトランジスタ研究の開始に指導的役割を演じただけにとどまらず,IC,トランジスタコンピュータなどわが国,あるいは世界でも初と言って良い革新的成果を生み出したのである.昭和31年(1956)には高橋茂,西野博二らにより世界初のプログラム内蔵型のトランジスタ(点接触型)コンピュータETL Mk IIIを始動させ,翌年には接続型トランジスタを用いたMk IVを完成した.これは複数の民間企業の商用機のモデルとなり,わが国のコンピュータ産業の基礎をつくったといっても言い過ぎではないだろう.昭和34年(1959)にははやくも英日の自動翻訳が試みられ,「やまと」が作成された.その機能はもちろん不十分なものであったが,わが国におけるこの種の試みの先駆けとなったものである.また,昭和35年にはキルビーらに遅れること1年で垂井康夫により日本初のICが作成されている.この時代の状況については本書に収録されている成定論文(3)に詳しい記述がある.

 第三部においては戦前,戦後を通じて,超高圧送電線の設計及び運用面における技術的問題点,即ち超高圧送電用機器の絶縁問題,継電方式,コロナによる電力損失及び通信設備に与える影響等の解決に成果を挙げてきた.

 昭和24年(1949)日本発送電会社は我が国最初の超高圧設計の新北陸幹線の建設計画を検討するため,“新北幹超高圧専門委員会”を設立した.その設計の要点は送電電圧は220kV,中性点接地方式は従来通りの消弧線輪接地方式とするものであった.これに対し,電力部の山田太三郎は,送電線絶縁の上で極めて有利な直接接地方式の採用を提案した.元来直接接地方式は送電線事故時の過大電流による通信線誘導問題の見地から,我が国においては採用不可能と考えられていたのである.種々検討の結果,通信線誘導問題の解決は可能との結論を得たので,山田提案が採用される事となった.これにより絶縁上の余裕を生じたので,送電電圧は275kVが採用され,直接接地方式の新北陸幹線が運転に入ったのは昭和27年(1952)7月であった.

 既述の通り,第三部は戦中,戦後を通じて我が国の電力技術研究において,独立的立場にあった.すなわち,昭和13年(1938)日本発送電会社が設立された時,総裁室電気試験所が設立され,また終戦直後電力技術研究所が作られたが,予算,人員共に規模が小さく,研究面においては,実質的に第三部に依存するところが多かったのである.

 しかし,昭和26年(1951)電気事業再編成によっ,日本発送電は解体され,九電力体制の成立に伴い,昭和27年(1952)九電力会社をバックとする電力中央研究所が設立された.電中研は資金面において確固たる基盤をなしていたので,近い将来,規模の面で電試電力部を凌駕するものと見られていた.

 電中研が成熟するに伴って,電力部との研究項目の重複が問題となった.そこで大枠として,電中研は電力会社からの依頼を主とした現在技術,電力部は未来指向の技術の研究に取り組む事となった.

 電力部ではすでに昭和22〜23年(1947〜1948)頃から,直列蓄電器補償送電方式や直流送電,更には後述する原子力発電の研究等,未来指向の研究に従事していた.しかし,これらは電力部全体から見れば一部分に過ぎず,大部分は研究項目の変更は困難なので,旧来の技術の研究を続けていた.

 その後昭和50年(1975)電力部の名称はエネルギー部に変更され,サンシャイン計画等新たなエネルギー技術への転換が計られたので,上記の予盾は解消されたのである.1960年前後における電力部の状況については本書の大谷論文(4)を参照されたい.しかし,電力部のエネルギー技術への指向は終戦直後から始っていたのである.送電技術一辺倒の電力部も,部分的には発電技術への転換が行われた.ただし,従来技術である水力発電,火力発電ではなく,地熱発電,原子力発電といった,当時の "Exotic Power Source" を迫及したのである.

 昭和24年(1949)当時,工業技術院には“地熱開発調査会”が設けられていたが,その事業の一環として電力部は大分県別府市の白龍温泉において小規模な地熱発電所(25kW)を完成させた(昭和27年 (1952)).これが我が国の地熱発電の先駆者となったのである.

 原子力発電については,早い時期(昭和22年 (1947))から調査を進めていたので,昭和30年(1955)IAEAによる年一回ジュネーブ会議の関係と共に訪れた我が国の原子力時代の幕開けに際しては,電力部は我が国原子力開発において指導的立場に立った.

 その後,我が国の原子力開発は日本原子力研究所を中心として進められる事となったが,電力部は原子炉の安全研究に力を注いだ.実験面では,原子炉安全における重要問題である冷却材喪失事故の試験を原子力発電所系統全体をモデルとした試験設備で行ったが,これは世界最初の試みであった.昭和41年(1966)この研究は日本原子力研究所における安全研究の重要項目であるROSA seriesとして引き継がれている.

 理論面では原子炉の安全評価方式に確率論的安全評価(Probalistic Safety Analysis:PSA)方式を導入した事が挙げられる.我が国における初期の原子炉の安全評価においては,英国炉には英国式,米国炉には米国式が,相互に関連のないまま採用されていた.そこで客観的な安全評価方式として打ち出したのがPSAであり,山田太三郎所長の論文が昭和37年(1962)のIAEAに発表された.現在原子炉安全評価において世界的に広く活用されているPSA方式の元祖となったのである.

 また,昭和33年(1958)に核融合の研究が開始されている.爾来,今日に至るまで当所はその独自性において世界の核融合における一定の役割を果たしてきている.

 電子技術への取り組み方,試験検定業務の分離問題,電力,標準部門のあり方等が検討され,その結果,昭和37年(1967),まず研究の流動性を高めることを目的として,それまでの部・課・研究室制に変わって,部・大研究室制を採用することとなった.また,同年に電子部は電子計算機部と電子部品部の2部に拡充,補強された.

 学術的基礎研究においても,当所は戦前から行われている論理回路の理論や送電系統の安定性に関する理論,パターン認識理論,さらには,超伝導現象の基礎的研究などみるべき成果が少なくないが,それらの中で特記するべきものとして,昭和39年(1969)に発表された近藤淳による近藤効果の理論がある.固体電子論に多大の影響を与え,のちに,学士院賞恩賜賞,ロンドン賞などを受賞している.

 一方,試験・検定部門については,昭和38年(1963),日本電気用品試験所が設立され,所の関連業務は移管されることとなり,さらに昭和40年(1965)日本電気計器検定所が発足することになり,検定部門の大半がこちらに移管されることになった.試験,検定部門の分離については本書の杉山論文(5)を参照されたい.これらの分離によって,所掌業務の大半が研究に特化されることになり,電子技術,情報処理技術の研究に特に一層の充実が図られ,同時に強電(エネルギー)技術関連研究の改革が進められた.昭和41年(1966),工業技術院に大型工業技術研究開発制度(いわゆる「大型プロジェクト」)が発足し,当所は「超高性能電子計算機」と「電磁流体(MHD)発電機」の2プロジェクトに参画することとなった.

 「超高性能電子計算機」プロジェクトは,わが国のコンピュータの技術水準を米国の水準にまで追いつき迫い越そうと言うものであった.当時は,当所の活動などによる1950年代の先進性にも関わらず,わが国の民間企業はデバイスもコンピュータシステムもほとんど米国からの技術導入に頼っていたのである.このプロジェクトの目標値は高く,実現を危ぶむ向きもあったが,現実には世界におけるコンピュータの性能向上の速度は大方の予想を上回り,そのくらいの目標設定が必要だったのである.主要ハードウエアの開発は民間企業に委託され,当所は当時の先進的ソフトウエアであった時分割システムの開発を行った.プロジェクトの主体は民間企業に委託し,当所はそれらの基礎となるもの,あるいはそれらを先導するものを行うというパターンがこの大型プロジェクトかち始まったのである.

 昭和39年(1964)には,生体の高度機能に学ぶ工学を目指し,実際の生体(当時はネコ)を用いて神経回路や脳の機能解明の研究を始めた.この分野はその後,所内で除々に発展し,当所のユニークな研究領域として大きな成果を上げてきている.

 これらの一連の所内体制の整備,拡充により,当所は,エレクトロニクス,情報処理技術,エネルギー技術,標準・計測技術の4分野(部門)をカバーする国立研究機関に成長したが,技術立国時代における国家的要請に応えるべく,昭和45年(1970)7月1日,創立以来79年続いた名称を改め,「電子技術総合研究所」とした.同時に,基礎電子技術分野の強化,情報処理分野の拡充と強化,エネルギー技術分野,標準・計測分野の体質改善等を主旨とする全面的な組織改正を行った.

 「電子技術総合研究所」への改名は二つの意味を持つ.ひとつは「試験所」ではなく,「研究所」であること,二つ目は「電気」ではなく,「電子技術」とすることである。「試験」という語はたしかに「研究」というニュアンスを含むものである.しかし,50周年記念式典の所長の述懐にあるように,「試験」はやはり「試験」であって,純粋研究とは異なる.名を改めることによって,以降は「試験」のための研究ではなく,純粋の研究を行うことを宣言したのである.そして,「電気」という語もまたたしかに「電子技術」を含むものと解釈される.しかし「電子技術」という語を敢えて打ち出したのは確実にエレクトロニクス指向を強めることの意志の現われである.「名は体をあらわす」というのが,所員の大多数は変わらなくとも,組織は名前にあった体質に変化し始めたのである.

 しかしこのころよりエレクトロニクスにおける日本企業の発展は目を見張るものがあった.研究開発に対する取り組みも旺盛で,研究開発への投資額は鰻上りであった.このような状況において電気試験所以来の役割を電子技術総合研究所が果たそうとしても無理であり,また例えできたにしても意義あるものではなくなりつつあった.コンピュータもICも製品化に近いところでの研究開発は当所では事実上出来なくなっていた.これは新名称のどこにも現われるものではなかったが,そこにこそ改名をきっかけとするもっとも本質的な自己改革が求められていたと言えよう.

 昭和45年(1970)には,視覚と手の操作を一体化したいわゆる知能ロボット「ETL Robot Mk-I」を開発した,以来,知能ロボットは電総研の重要な研究分野となっている.当時は産業用ロボットが米国から紹介されたばかりの時代であった.

 同年,大型プロジェクト「パターン情報処理システム」が始められた.文字,音声,図形,物体などのパターンをコンピュータに認識させようというものである.その前に行われた「超高性能電子計算機」プロジェクトにおいて文字認識の研究が進められていたが,さらに,永年所内で続けられていた音声,図形,物体認識の研究などがプロジェクト体制に組み立てられたのである.同時にこのプロジェクトでは並列処理コンピュータの研究も行われた.また小規模ではあるが,人工知能の研究もこのプロジェクトの一環として始められた.これらが次に続く「第五世代コンピュータ」および「スーパーコンピュータ」のプロジェクトの基礎になった.

 電子デバイスの研究はシリコン素子だけでなく,ガリウム砒素素子.そしてジョセフソン接合素子などの研究など,より先進性を求めると同時に,研究者の超LSI研究所への出向に見られるように産業界の指導に役割を発揮した.シリコン素子については,このころ電総研で開発された技術のうち,のちに10年,あるいは15年を経て民間企業で広く利用されているというものが多い.たとえば昭和41年(1966)には世界初のアナログMOSICを開発し発表している.また昭和44年(1969)にはDSA MOS,昭和46年(1971)にはやはり世界初のn‐チャネルEPROMを発表している.

 また,アラブ諸国の石油輸出規制に端を発したエネルギー危機を背景に,昭和49年(1974)よりサンシャインプロジェクトが開始された.当所はエネルギー危機が始まる前よりこの問題を重視し,太陽エネルギーの利用などめについての研究を開始しており,システム,デバイス,材料研究などの立場から,このプロジェクトにおいて重要な役割を果たしつつ,現在に至っている.

文頭 100年史年表 100年の軌跡


5.基礎的,先導的研究への指向

 昭和55年(1980),2年がかりの筑波への移転を終えた.それまで都内の永田町,木挽町,田無市に分散していた施設がつくば市に集中されたのである.こうして電総研は筑波本部と大阪支所で構成されることになった.なお,移転時には移転に直接必要とする費用以外に,移転を契機として新研究を始めるための特別予算が組まれることになり,予算の変遷を示す図2において昭和54,55年(1979,80)の予算が特異的に大きいのはこの事情による.ちなみに,昭和62年(1987)の予算が突出しているのは特別補正予算を含むためである.

 昭和56年(1981)には「次世代産業基盤技術研究開発」制度,そして「科学技術用高速計算システム」(スーパーコンピュータ)大型プロジェクトが発足した,次世代制度は大型基礎研究を目指すもので,当所は「3次元デバイス」,「超格子素子」などのプロジェクトに参画し,未来指向デバイス研究の基礎作りに貢献した.スーパーコンピュータプロジェクトでは,ガリウム砒素素子,ジョセフソン素子,並列処理アーキテクチャおよびソフトウェアの研究に参加し,やはりプロジェクトの先導役を果たした.

図2 予算額の推移

 ジョセフソン素子の研究は電総研における総合性を発揮した例の典型である.「総合研究所」は単なる名前だけのものではない.所内で進められている多彩な研究分野が相互に影響し合うことによって,新分野が開かれ,世界に類を見ない成果が上がるのである.スーパーコンピュータプロジェクトが終わる直前(平成元年 (1989))に,高田進らによって世界ではじめてといえるオールジョセフソン素子のコンピュータを稼働させることに成功したスーパーコンピュータプロジェクトが発足してしぱらく経った昭和58年(1983)に,それまで進んでいたIBMが事実上ジョセフソンコンピュータの開発を断念した.しかし電総研とプロジェクトに参加した日本の企業は研究をさらに進め,未だ実用には遠いが,その実現可能性を実証したのである.この成功の大きな要因は,ジョセフソン素子の核となる超伝導物質に従前の鉛に換えてニオブを用いたことにある.ニオブが優れた性質を持つことは知られていたが,加工が難しいとされた.しかし,電総研ではエネルギー分野で超伝導の応用の研究が以前より進められており,ニオブの加工についても高水準の技術力を持っていた.こうして1983年の危機を乗り越え,電総研の技術は技術指導によって企業に移転され,そこでも重要な成果を納めるもととなった,さらにジョセフソン素子技術は所内において電圧標準のための研究に役立ち,さらには極微弱な磁場を検出する超高感度磁気センサの開発にもつながった.このように,さまざまな分野の研究が互いに支えあい,刺激し合うところに電総研の「総合研究所」という名前が単に名前だけのものではない所以がある.

 おなじくスーパーコンピュータプロジェクトにおいて電総研は実用規模のデータフローマシンSIGMA‐1の開発に成功した(昭和63年 (1988)).基本アイデアは米国から出されたものであるが,製品化されたスーパーコンピュータに性能面で負けることなく,しかも並列処理の観点から見てよりすぐれた性質を持つことを実証したのである.パターン情報処理プロジェクト以来続けられた並列処理コンピュータの研究が結実したものと言えよう.

 しかし,ジョセフソン素子もデータフローマシンもいずれもすぐ製品として市場に現われるものではない.とくにジョセフソン素子コンピュータが現在のシリコン素子コンピュータを実用面で乗り越えるには相当な研究資金,人材,そして時間が必要であろう.それも製品化を強く指向した企業内研究が必要である.トランジスタ型コンピュータMk IVが直接的に企業の製品のモデルになった時代とはすっかり変わったのである.

 一方,昭和57年(1982)にはICOT(新世代コンピュータ開発機構)が設立され,いわゆる第五世代コンピュータプロジェクトが始まった.その発足数年前,電総研内においてパターン情報処理プロジェクトの後継プロジェクトについて論議が進められていた.我が国で「知識情報処理」すなわち人工知能の研究を本格的に始める必要性を当時の若い研究者は痛切に感じていた.この議論がさらに洗練されて第五世代プロジェクトの企画になった.したがってこのプロジェクトは実質的に電総研がたち上げたものと言っていいだろう.しかし研究の場はICOTに置かれ,そこに電総研の研究者が参加してプロジェクトを指導することになった.このパターンは超LSI研究所と同じである.電総研でのこの分野の研究はICOTとの協力研究を行うと同時に,さらに基礎的,先導的研究を目指して行われることになった.現にその方向での所内の研究が,「柔らかな情報処理」として,平成5年(1993)より発足した「リアルワールドコンピューティング」プロジェクトの中核的概念となって結実した.

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6.さらなる飛躍を求めて

 臨時行政調査委員会の要請により,昭和61年(1986)から翌年にかけて,いわゆるマネージメントレビューが行われた.それに基づき,昭和63年(1988)には大幅な組織再編が行われた.ここで,大阪支所は「大阪ライフエレクトロニクス研究センター」と命名された.

 この組織再編にいたる過程で,従来の研究開発構造のパラダイムそのものの見直しと,新パラダイムから見たときの当所の役割について,ひろく全職員の参加による議論が行われた.

 それによるならば,従来の,基礎研究->応用研究->製品開発研究という単線型の研究開発発展の図式に疑問がもたれ,現在の,すくなくとも当所が対象とするような高度な技術分野に関する限りは,複線型,すなわち,技術の苗床を作り上げる基礎的,先導的研究開発活動と,そこから得られる知見や技術を利用して,(見かけ上日進月歩で)製品化を進める直接的研究開発活動とが並行して走り,なおかつ両者に相互作用が起きると言うモデル(パラダイム)のほうが実態を理解するものとしてよりすぐれているのではないか,ということになったのである.現在の科学技術発展の構造をこのように見るならば,現在の電総研の役割はずっとわかりやすいものになる.製品開発の流れに独立,先行して,技術の新分野を開拓し,土壌を豊かにすることこそがその使命であると考えられるからである.これこそが未来技術の基礎を確立するという意味での「基礎的先導的研究」であり,その意味で,組織再編は「基礎シフト」を目指すものとなった.この対象にはもちろん純粋科学の研究も入る.未来技術を生み出すには何事に付け,対象分野の理解を深めることが必須となるからである.

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7.最後に

 碍子のテスティングラボから始まった当所は,こうしてみるとずいぶん遠くまで来たものだと言う感慨を禁じ得ない.世界の優れた研究所はいずれもその発展過程で自己の役割を変化させてきている.研究所の命は,当然ながら研究者の研究活動である.そして優れた研究所はすぐれた成果のみならず,すぐれた研究者を生み出す.その力量を最大限に引き出す環境を提供するからである.そのためには研究所の体質そのものが時代の変化を先取りし柔軟に進化していく必要がある.これまでのところ,当所はそれを満点とまでは言えないまでも見事に果たしてきたと言えよう.


く注>
(1)杉藤芳雄:「碍子試験所」は正式の国立機関名であったか,本書p678
(2)松本三和夫:逓信省電気試験所と密田資料,本書p702
(3)成定薫:1950年代:物理部と電子部の設立,本書p740
(4)大谷卓史:1960年代,本書p747
(5)杉山滋郎:試験,検定問題,本書p764


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